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宮崎市定 『中国史』(岩波文庫)1/2

 歴史学に多少興味がある人なら一週間程度で通読できるように書かれた中国史の概説書。古代から最近世までが平易な文章で論旨明解に書かれている。
 いわゆる京都学派の中心にいた著者は冒頭の総論で「歴史は客観的な学問であるから、誰が書いても同じ結果になるという考えを棄ててほしい」と述べている。はたしてその通り、この『中国史』には、高校の教科書のように、だれがどんな出典をもとに、何を言いたくて書いたのだろう、どこの意向に沿うとしているだろうと疑わせる曖昧な記述がない。「歴史学は史料・文献の解釈学でもあるのだから、私・宮崎市定はかくかくの事象を解釈するに当たり、これこれの文献をあたり、諸先輩の何々という説もその都度吟味したうえで、以下のように記述する」という態度が上下巻全ページにおいて貫かれている。読んでいて胸のすくような箇所に何度も出会う。
 なお、ウィキペディアによれば、文化大革命の始まる前の中国学会において、高級幹部・専門家向けの内部読物として『宮崎市定論文選集』2巻が1963年-1965年に限定出版されている。「反動史学家」というレッテルを貼られながらも、中国への批判も含めて忠実に中国語に翻訳されているそうだ。

 総論 古代とは何か
 p58
 古代の物語はどこか世界の一カ所に発生して、
 東西それぞれに「史実」となったのではないか

 日本で一般的に知られている春秋時代の史実はほとんどが春秋左氏伝に拠ったものである。左氏伝は孔子と同時代の左丘明の作と言われているが、じつはこの来歴はすこぶる怪しい。あれだけ詳細な記事の文は、どう見ても戦国以後、ことによれば漢代の出来ではないかと思われる。したがってその中に書きこまれた史実も、後世からの竄入がかなり含まれているはずである。中国とヨーロッパで歴史的に相応ずる物語の年代を比較すると、いつも中国の方がヨーロッパより早いのであるが、本当にそれでいいのだろうか。
 わたしの漠然とした考えでは、これらの一類の物語はどこか一カ所に根源があり、それが西はローマ、東は漢の時代にそれぞれの世界で語り継がれ、新たに時とところを与えられて、いつの間にか確実な歴史事実になってしまったのではあるまいか。・・・・・もし左氏伝等に書かれた春秋時代の形勢を眼前に髣髴させることができなかったならば、ギリシアの歴史を読みあわせてみるのもまた一法かと思う。

 第1篇 古代史 2.都市国家の時代
 p139−40
 「忠」ではなく「信」こそが論語の基本思想だった
 孔子は後世になって、儒教の開祖としてあまりにも極度の尊崇を受けたために、かえってそこから種々の誤解を生ずることとなった。孔子の言行録たる『論語』はある程度まで真実に彼の面目を伝えているが、その『論語』も、多分に孔子の真意を歪めて読まれてきた。
 たとえばこの書は、忠孝を柱として道徳を説いたように考えられているが、実際は孔子の忠はそんな意味ではなかった。忠とは君に対してのみならず、特定の知人に対して誠実なることの謂いであった。しかも忠の『論語』に現われる頻度は甚だ少ない。
 孔子がもっとも力説したのは忠ではなく信であった。信は一般的人間生活、とくに彼が生きた時代の都市国家における市民間の信頼感であって、まさに社会道徳の根幹たるべきものであった。もちろん信は個人的に知り合った友人の間に行われる道であるが、それは同時に不特定の人と人の間、君主と一般人民との間に不可欠な紐帯たるべき徳で、これがなければ人間社会は平和を保つことができない。都市国家も維持もまた、市民間に信が存在するのを前提として初めて可能なのであった。ところが『論語』をこのように読む読み方はいつの間にか歪曲され、忘却されてしまったのである。

 第1篇 古代史 3.戦国時代
 アレクサンダー大王の東征が中国に騎馬戦術をもたらした
 長く馬を飼育したならば、その背に乗って走ることは誰しもすぐ考えつきそうに思えるが、実際はそうではない。騎馬のためには調教が必要であり、調教には馬銜(はみ)がぜひ必要である。この道具の発明はなかなか容易ではなかった。おそらく数千年もかかって発明された騎馬戦術は、まず西アジアから中央アジア遊牧民族の間に広まり、それを経て中国に到達した。
 同じ遊牧民族でも、中国の北方にいた民族は長い間騎馬することを知らないでいた。戦国時代彼らが西アジア騎馬術を知り、それが中国に伝わったのは、おそらくアレクサンダー大王の東征の影響だったと思われる。アレクサンダーが騎馬隊を含む25000人ほどの大軍を率いてサマルカンドを占領し、進んでシル河畔に到達したのは紀元前329年だった。ギリシア軍の優秀な騎馬戦術がそのときシル河畔の遊牧民族に学び取られ、それが戦いの中で中国にさらに学び取られたのだろう。
 中国で趙の武霊王が騎馬部隊を編成し、国勢を高めて北方に領土を拡張しはじめるのはわずかその20年ほど後のことである。鋭利な文明ほどそれが伝播する速度は速いものである。