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アゴタ・クリストフ 『悪童日記』(ハヤカワepi文庫)

 アゴタ・クリストフは1935年生まれ、ハンガリー出身の女性作家。生活上の苦労をいろいろしたあとスイスに移り住み、、大人になってから覚えたフランス語で作品を書いている。
 この小説は、同じ文庫の巻末広告で偶然に知った。1991年に日本語訳が出たとき、「思いもかけないところから衝撃的な小説が現われた」とか、「震え驚いた」とかいう著名な批評家の書評があったようだ。近頃の新聞の書評などは作者と評者の個人関係などを調べたほうがいいが、この小説の書評だけは、読んだ人は得しただろう。

 文庫で270ページほどの中編だが、62もの章に分かれている。10歳前後の双子の男の子の身の上に起いろいろな「事件」が、「悪童日記」のタイトル通り、子供の日記あるいは作文ふうに、小説家の文章上のテクニックを意識的に排除する文体で、あったことの生地そのままに綴られている。作者の母国語がフランス語でなかったことが、「鋭い子供の作文」としてかえって効果的に働いたらしい。
 時代は1942年から1945年までのハンガリーのいなか町。預けられた祖母の家のすぐ近くにはドイツ軍の占領基地がある。もちろん強制収容所があり、ユダヤ人やジプシーのジェノサイドも起きるのだが、そういうことだけを作家が言いたいのではない。
 ハンガリー第一次大戦までハプスブルク家支配下にあった、西欧とはまるで事情の異なる成り立ちを持つ国だ。20世紀の半ばでも、カトリックやロシア・ギリシア正教の、中世を抜けきらないような強圧が町々、村々の隅々に残っている。貧富の差は大きく、人種間の憎しみは烈しく、人の命は軽い。教会の神父は貧しい平民を人間並みに扱わないし、信徒の娘とみだらなことを平気でしている。
 しかし平民の中に『悪童日記』の悪童のような強気なのがいたりすると、そいつらは神父の淫行現場を押えて「教会でばらすぞ!」と脅して、金品をゆすったりする・・・・・・。悪童を養っている祖母にしてからが、昔、夫の食事に毒をもって殺したと噂されている「魔女」である。
 大人の社会意識を持たない悪童には――近代西欧のプロパガンダに感染していない平民にしても同じだが――ドイツ軍はただの殺戮集団ではない。軍隊が殺戮集団であるのはハンガリーを「解放」したソ連軍も同じである。街の破壊、掠奪、殺人についてはソ連軍の方がむしろ厳しく書かれている。悪童の住む家はナチに強制収用され、一番いい部屋にナチの将校がひとり住んでいるのだが、そのインテリの将校は性的倒錯者であり、自分を鞭打たせて転げまわりながら、世界というものの複雑さを無言で悪童に教えている。悪童はそのナチ将校の行状を、観察眼だけがあって感情移入のない文章で淡々と描く。

 62章もあるから一つの章あたり4、5ページ。その各章の中で必ず一つの事件が起こる。そしてそれらの事件が全部微妙に繋がって、不気味な結末がくる。アゴタ・クリストフのストーリー・テリングの力は大したものだ。『悪童日記』は作者の代表三部作の一つらしく、続編として『ふたりの証拠』、『第三の嘘』がある。(ただし、どちらの続編も駄作なのはどうしたわけか。)
 妙なことに気付いたのだが、アゴタ・クリストフを英語風に読めばアガサ・クリスティになる。もちろん時代は半世紀もちがうし、まったく別人だが。