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ガルシア・マルケス 『エレンディラ』(岩波文庫)

 ガルシア・マルケスは南米コロンビアのノーベル賞作家。下の三つの断片のように、およそ超常現象的なことを、こういうことが起きるのが南米の大地だとして、時に望遠レンズ風な、時に顕微鏡レンズ風な文体で、なにくわぬ顔をして描く。
 ラテンアメリカの、北アメリカや西欧とはまったく違って、都市社会が出てこない世界。だから、描かれるのは大脳表皮が作り出す人工社会ではなく、体温、呼吸、脈拍、怒り、喜び、性、食欲など脳幹に支配される世界である。
 この物語は南米特有の「元型」を発展させたものといえる。南米特有とは、先住民であるインディオ由来の伝承に特有のという意味である。

 その土地に「あったとされる現象」は、「自分たちはその現象を受け入れる」と表明する集団をひとまとまりにする。「元型」とはそうした、ある集団に生起したことがらの受け入れの仕方にほかならない。翻訳者の木村栄一氏によれば、ルーマニア出身の宗教学者で、好きな人には魅惑的な(私はついていけないが)幻想小説もたくさん書いたミルチャ・エリアーデはこうした「元型」について次のように言っているそうだ。
 『 叙事詩にうたわれている人物の歴史的性格は問題ではない。史実性は、神話化という民衆の記憶の侵蝕作用に長く抵抗できない。歴史的事件とか実在の人物の追憶は、せいぜい2、300年しか民衆の記憶にとどまらない。民衆は個々の事件と実在の人物との関係を記憶に止めておくのが困難だからである。
 民衆の記憶には「歴史」とは異なり、「事件」の代わりに「カテゴリー」が、「実在」の人物のかわりに「元型」としての人物があらわれる。実在の人物は英雄といった元型に同化され、事件は敵対する兄弟や怪物との戦いという「神話的なカテゴリー」の一部とみなされる。』

 このエリアーデの文章は私たち日本人にもわかりやすい。日本武尊は、私たちは歴史上に実在したとは思っていないし、頭が八つもある蛇が暴れまわるのは子供にも不審なことだろう。150年前の新撰組も、とうの昔にすでにかなりの部分で、神話化されているに違いない。「元型」は、分かりやすく言えば「パターン」のことだ。

 断片(=南米社会の元型)1 <天使待望センチメンタリズム>というパターン
 ベラーヨが砂浜に出かけると、背中に翼の生えた年取った男がぬかるみに倒れ、もがけばもがくほど大きな翼が邪魔になって、立ち上がることができずにいた。仰天したベラーヨは年取った男を中庭の奥の鶏小屋に閉じ込めたが、次の日にはもう町中の者が、ベラーヨの家に本物の天使が匿われていることを知ってしまった。
 ことの重大さに驚いて、ゴンサガ神父が駆けつけた。集まった野次馬たちは囚われの天使の将来について、あらゆる種類の推測をめぐらした。単純なものたちは、この世をすべる長に任命されるべきだと言った。厳しい性格の持ち主は、あらゆる戦いで勝利を得る五つ星の将軍に任命されるに違いないと想像した。少数の夢想家たちは、種付け用に大事にとっておいて、宇宙を支配する、賢明な、有翼の人類を地球上に誕生させるという期待を口にした。
 ゴンサガ神父は、男が本物の天使であるかどうか、直属の司教にあてて手紙をしたためた。司教は主席司教に当ててやはり手紙で問合せをし、この主席司教はさらにローマ法王に書簡を送った。
 しかし、ローマの郵便制度は「至急」の観念を喪失していた。大きな翼の生えた年取った男にへそがあるかないか、その言葉は(イエスが使っていた)アラム語と関係があるかないか、ハリの穴を何度もくぐれるかどうか、翼のあるノルウェー人に過ぎないのではないか、といった調査で時間は食われていった・・・。

 断片(=南米社会の元型)2 <女はちょい悪の偉丈夫を待つ>というパターン
 女たちは考えた。この偉丈夫がもし村に住んでいたら、家の戸はどこよりも広く、天井はどこよりも高く、床はがっしりした造りになっていただろう。男の寝るベッドは船の主肋材を用い、鉄のボルトでしっかり止められ、彼の妻になった女はこの世でいちばんの仕合わせ者になるだろう。これほど立派な男ならきっと魚を呼び集めてやすやすと漁をするだろうし、荒れ果てた岩地に水の湧き出る泉を掘り、花の種を蒔いて絶壁をお花畑に変えてしまうに違いない。

 断片(=南米社会の元型)3 <身の回りはいかさま師だらけ>というパターン
 行商人のブラカマンは煮ても焼いても食えない悪党だった。副王に仕えていたころがあの男の全盛時代で、なくなった副王にあの男が防腐処理をしたのだが、その処理された顔は実に威厳に満ちたもので、生前よりも死後のほうが統治がうまく行ったものだった。遺体に死相が戻るまでは、誰ひとり埋葬しようとするものはいなかったほどである。
 永遠に勝負がつかないチェスを考え出したのもそのころだが、それがもとで牧師が一人発狂し、有名な自殺事件が2件も続いたためにすっかり評判を落とし、夢占い師から誕生日の催眠術師、さらには患者に暗示をかけて歯を抜く抜歯人をへて、ついには大道の治療師にまで落ちぶれ、海賊からも胡散臭い目で見られるようになっていた。
 これさえあれば体が透明になるからといって密輸商人に座薬を売りつけ、カトリックの女にはこれをご主人のスープに二、三滴落としてご覧なさい、すぐに神を畏れるようになりますよと言って、水薬を押し売りしていた。

 数百年あるいは一千年を超える伝承物語に史実としての客観性を求めても無駄である。文化の基礎をなす「元型」に「客観性」を求めることほど、近代の「科学」に対する妄信を示すものはない。