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ピエール・ルメートル 『死のドレスを花婿に』(文春文庫)

 男女二人の主人公がいる。男の主人公フランツは深刻な双極性感情障害(いわゆる躁うつ病)を患っている。母親サラも過去同じ病気にかかっていた。彼女が幼いときに両親がナチの強制収容所に送られ、そこで死亡したことに重大な影響を被ったものだった。
 フランツはその気質を受け継いだのだが、フランツの感情障害発症を決定的にしたのは母親サラが自殺したこと、それもその方法だった。フランツが16歳のとき、入院中の母親サラを見舞った直後、サラは(生命誕生の象徴である)ウェディングドレスを着て病室から飛び降り、病室を出て庭を歩くフランツの目の前で身を砕いたのだ。
 そのときのサラの担当医師が、この小説のもう一人の主人公ソフィーの母親カトリーヌ・ルフェーブルだった。フランツは理解力も洞察力も世間以上にある人間なのだが、他者からの愛情や自信の喪失に悩んでおり、母親の自殺はルフェーブル医師が母親をきちんと治療してくれなかったせいだと思い込んでしまう。そして大人になったら復讐としてルフェーブル医師を殺そうと決める。

 フランツの母親が自殺して20年ほど後のパリでこの小説は進行する。カトリーヌ・ルフェーブル医師は病気で亡くなっている。感情障害が悪化しているフランツはそこでカトリーヌの一人娘ソフィーに恨みを向ける。これを無茶だと思うのは健常者の世界で、フランツは感情生成がうまくいかないのだから仕方がない。
 躁うつ病を病んだ人が殺意を抱いたときの異常さがここから始まる。フランツはソフィーをいきなり殺そうとはしない。「俺の愛する母親サラがあれほど苦しんで俺の目の前で自殺したのだから、ソフィーにもその苦しみを味わわせてやって、それから自殺してもらおう!」という恐ろしい決意である。

 読ませどころは第二章「フランツ」。
 フランツはバイクでソフィーの車を尾行し、交差点で停車したところで手を伸ばして車の助手席のドアを開け、ソフィーのバッグをつかんで逃走する。見たこともない男にいきなりやられたのだから、ソフィーは何もできない。アパルトマンと郵便受けの鍵、車のスペアキー、携帯電話、財布、身分証明書、かかり付け医、友人知人の住所録、社内LANに入るパスワードなど仕事と私生活にかかわるすべてが入っていて、フランツはそれを全部コピーする。コピーした後でバッグごと路上に捨て、警察に「発見」させる。
 フランツはソフィーのアパルトマンの真向かいに部屋を借り、暗視スコープ付き望遠鏡を設置する。ソフィーの私生活をすべて監視、撮影できるのはもちろん、アパルトマンの鍵を持っているのだから部屋の中に自由に出入できる。初めのうちは雑誌や食器の場所、バターやコーヒーの銘柄、クローゼット内の服の並べ方などを微妙に変えて、ソフィーに「あれ?」と妙な感じを与えるだけにとどめる。その「何だか変」という微妙な違和感を少しずつ彼女の脳内に増やしていくのがフランツの狙いなのだ。
 そのうち、なくしたと思っていたソフィーの宝石箱がトイレのタンクの裏側で見つかったり、車が100メートルも動かされていたり、夫に買った誕生日プレゼントが置いた場所とは全然違うところに隠してあったりして、ソフィーの「あれ?」感はだんだん「混乱」に変わっていく。郵便物が勝手に持ち去られているため、仕事関係の書類が行方不明になる。携帯電話のメモリーからパソコンのパスワードやメールアドレスも読まれていて、いろいろな予約がキャンセルされたり、日時を勝手に変更されたりして、順調だった仕事にも支障がでてくる。ついには社内イントラネットに彼女と夫の性交渉の写真が出回ってしまう。社内イントラネットなのだから写真を載せたのは外部のハッカーではなく彼女自身だということになり、有能だったソフィーはとうとう仕事を失ってしまう。
 監視を続けるフランツはソフィーが軽い催眠剤を飲んでいることに気付く。ここから一気にフランツのソフィーへに対する精神干渉が加速する。服用を続けると鬱病を引き起こす禁止薬品をインターネットから購入し、部屋に侵入して彼女の催眠剤にひそかに添加する。通り一本はさんだ向かいののぞき部屋から生活のすべてが見られていることを何も知らないソフィーは、最近の「記憶低下」に悩んでいることもあって不眠がちになり、「軽い」催眠剤の量を増やし、ほんとうの鬱になっていく・・・・。

 タイトルに<死のドレスを着るのは花「嫁」ではなく花「婿」である>とあるのを忘れると、この後は読み続けるのがつらくなる。自宅の南向きベランダでさらさらページをめくる本ではないが、代表作といわれている『その女アレックス』をはるかにしのぐ重さがあると思う。