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谷崎潤一郎 『蓼食ふ虫』(角川文庫)

 男女関係のありように関する谷崎の特異な認識が書かれている。谷崎の後期作品はここから始まるというが、谷崎はもともと「蓼を食う」人だったのだろう。『痴人の愛』を38歳で書き、これは42歳のときの作。
 主人公の二人・要と美佐子夫婦は結婚して10年ほど、小学校高学年の子供もあるが、お互い生理的に異性を「感じなければならない」ことが鬱陶しい。性的には二人はまったく透明人間で、美佐子が阿曽という男を作り毎日のように出かけても、要はそれを愉快と思うわけではないが、嫉妬心などはない。むしろ夫婦の実態のなさが子供に与える影響を考えて、自分と美佐子の離婚のタイミングについて要は阿曽と話し合ったくらいである。
 谷崎にこしらえられた夫婦二人の優柔不断さは言語に余る。谷崎が第一夫人・第二夫人と離婚し、ついに念願の松子夫人を手に入れて世間を騒がせたときにも、その裏舞台ではこのような劇が二筋・三筋あったのかと想像すると、ご苦労なことだと正視に堪えない感じもする。
 別れようと考えている要と美佐子の心理描写の一例。
 p57
 要が従兄の来るのを楽しみにする気持ちの中には、自分の運命を弄ぼうとする心も手伝っていた。打ち明けて言えば、実行するにはあまりに意志の弱い彼は、別れた場合の空想にばかりふけっているので、その空想が従兄に会うと非常に活発に実感を帯びてくることが愉快なのである。従兄がかつて前の妻を離別したときは、要のようにぐずぐずしていなかった。ある朝彼は妻を一間のうちへ呼んで、晩までかかって事細かに理由を述べた。そうして離縁を言い渡しておいてから、最後の別れを惜しむためにその晩中、妻と相抱いて泣いたそうだ。
 今度の事件で要が従兄を頼りにするのは、自分が従兄のように悲劇に直面することができ、泣きたいときは思うさま泣ける性質だったら、定めし後がさっぱりするだろう、あれでなければ離別はできないとつくづく思ったからではあるが、しかし要にその真似はやれないのである・・・・・・・。
 ・・・・・要は決して美佐子を阿曽の方へとそそのかすようにはしなかった。妻の恋愛を「道ならぬ恋」であるとする権利はない、自分はそれがどこまで進展しようとも是認するより仕方がないと思っていた。が、彼のそのような態度が間接に美佐子をそそのかす働きをしたことは確かであろう。
 彼女の求めていたものは、そういう夫の物分かりの良さ、思いやりの深さ、寛大さではないのであった。「あたし自分でもどうしていいか分からないで、迷っているのよ。あなたがよせと言ってくだされば、今のうちならよせるんです。」と彼女は言った。もしそのとき圧制的にでも、「そんな馬鹿なことはよせ」と言ってくれたらば、その方がどんなに嬉しかったであろう。「為にならないから」とでも言ってくれたら、それだけで阿曽を思い切りもできたであろう。しかし夫は「どうしたらいいでしょう?」と』詰め寄っていくと、「どうしていいか僕にもわからない」と言って、ため息をつくばかりであった・・・・。

 ふつうは食わない苦い蓼とは何のことか、その蓼を食う虫とは誰のことか。
 ラストを読むと、美佐子の父である典型的懐古趣味の老人は、自分の囲っている人形のような若い京女を要に与えて、それでもって関係不全に陥っている美佐子と要を修復させる魂胆でいる。変わった女性観、夫婦観を持つ老人である。これが典雅だと一人合点している。
 そして若い女と要だけを残し、自分は美佐子と食事に南禅寺に出かけてしまう。要は、その舅のはからいに驚きながらも、与えられた女と寝てしまう。好きなこと(もの)は人それぞれということだろうが、谷崎はやはり男女関係に格別の嗜好を持つひとではなかろうか。鮎は蓼酢があっていちばん美味しくなるのは間違いないが。