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加藤周一 『日本人の死生観』(岩波新書)1/2

 近代日本知識人の「自分の死」に関する考え方を、乃木希典森鴎外中江兆民河上肇正宗白鳥三島由紀夫の6人を選んで、ケーススタディとして述べた本。そのうち特に興味深かった乃木希典三島由紀夫について――二人はともに割腹自殺した――いくつかのパラグラフを抜き書きする。

 

 乃木希典――天皇の武士

 上巻p53-4 

 1887年西南戦争が始まるとともに、乃木は政府軍の大兵力の一翼として、連隊を率いて小倉から出陣した。乃木は2年前の萩の乱で、敵側にいた弟や恩師への思いのせいで戦いに没入できず、上官から厳しい叱責を受けていた。来たるべき戦闘はこの時の屈辱を忘れるためにも武勲を立てる好機だった。
 しかし乃木は血気にはやりすぎ、沈着さを欠いていた。西郷軍に包囲された熊本城に連帯を率いて向かう途中、山中で敵兵力と衝突する。激戦の中で乃木軍の旗手が戦死し、新政府の象徴として天皇から授けられた軍旗を反乱軍に奪われた。乃木は衝動的に自分から先頭に立って軍旗を奪い返そうとしたが、部下に抱きとめられた。戦闘のさなかに軍旗を探し求めることは、必ず死を意味していただろう。軍旗喪失という不祥事に対して山形有朋は極刑を主張したが、直属の上官が乃木の勇敢さを認めて擁護し、この件については処罰されずに終わった。

 p64-5

 1894年の日清戦争で、日本軍は旅順を簡単に攻略していた。だから1904年の日露戦争でも、大本営はロシア太平洋艦隊の立てこもる旅順港をすぐに落とせるものと見ていた。しかしそれは見込み違いだった。乃木の第3軍はロシア軍に3回の総攻撃をかけたが、旅順はまったく落ちなかった。ロシア軍の機関銃掃射によって日本軍の3分の1の兵隊がなぎ倒されただけだった。東京では「無能無策」の将軍が若者を無意味に殺していると非難の声が高まり、乃木の住宅は投石を受け、妻が外出すると「あなたの良人は国家の悪玉である」と罵られた。
 失敗に失敗を重ねた末、乃木は旅順港を見下ろす203高地に兵力を向けた。この作戦は元来大本営の方針だったのだが、正面攻撃を好む乃木がこの方針を先には拒否していた。しかし方針を変更した203高地攻略作戦でも、乃木の日本兵は倒されるばかりだった。
 旅順における乃木の屈辱の極みは、ついに203高地を落とした攻撃が彼の指揮する作戦ではなかったことである。満州軍総司令官元帥の大山巌は乃木には旅順を陥落させられないと見て、総参謀長児玉源太郎を派遣し、乃木に代わって攻撃の指揮を命じた。その結果旅順は1週間で日本軍の手に帰した。しかし、乃木の名声をおもんぱかって、当時以後太平洋戦争終結まで、この指揮権交替は公表されなかった。

 p79

 乃木の殉死は、彼の一生が有効だったことを自分と周囲に示すための手段だったといえる。彼は、自分が周囲の人々を裏切ったという罪の意識に対抗するために、絶対の権威を必要としていた。明治天皇はその絶対権威の象徴だった。だから、肉親と友人のために死ななかった彼は、自分が歩んだ道が人間としての基準にかなっていたことの証明として、天皇のために死ななければならなかった。おそらく乃木は明治天皇の大喪の日に自ら死刑執行するつもりで、ながいこと天皇の死を待っていたのではないか。
 切腹することで彼は、理想にしていた(つもりの)真の武士としての自分のイメージを通用させ、それまで責められていた過失、罪、能力の足りなさの感情から免れた。軍旗喪失に終わった西南戦争での無謀な攻撃の償いをした。機関銃の威力を知るだけに終わった旅順における3回の血塗られた正面攻撃の愚を償ったのだ。