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佐伯啓思 『さらば、資本主義』(新潮新書)2/2

 第八章 アメリカ経済学の傲慢 p157-65

 経済学の本格的な研究書でありながら大ベストセラーになった『21世紀の資本』。著者のフランス人経済学者トマ・ピケティは、自国で博士課程を終えた22歳のときアメリカのMITに職を得ます。経済学者としてはめったに得られないキャリアでしょう。しかしすぐに彼はアメリカの経済学研究に嫌気がさしてフランスに戻ってしまう。その理由をピケティは次のように回想しています。
 「自分がMITでやったのは、現実の経済とはまったく無縁な数学的な分析だけだった。ところが、まさにそのことがアメリカでは称賛されたのだ。アメリカの経済学業界は、どんな事実を説明すべきかさえ知らないくせに、純粋な数学理論にすぎないものだけを次々に吐き出し続けていた。
  「率直に言わせてもらうと、経済学という分野は、数学的な純粋理論に対するガキっぽい情熱を克服できていない。そうした純粋理論がしばしばイデオロギー偏向をともなってうことに気づこうとしない。だから、経済現象の歴史研究や他の社会科学との共同研究が犠牲になっていることも知らない。アメリカでは(人間の英知をすべてデジタルアーカイブにしてみせると豪語したグーグルの能天気開発者を彷彿させる)経済学者たちは、自分たちの内輪でしか興味を持たれないような、どうでもいい数学問題ばかりに没頭している。この数学への偏執狂ぶりは、経済学を科学っぽく見せるにはお手軽な方法なのだ。」
 
 たしかに数学は中立的で論理的です。頭が左にねじれた人も右にねじれた人も、数学的論証は受け入れるほかありません。「市場競争経済はうまくいく」ことを数学的に論証すれば、これは誰もが受け入れるほかない。
 しかしながら、一般的に言えば、「市場経済はうまくいく」と言うほうが数学化しやすいことを多くの人は知りません。どうしてかと言うと、うまくいくというのは均衡するということで、うまくいかないというのは不均衡だということです。そして数学のロジックはどうしても均衡のほうを扱いやすい。不均衡という状態はカオスに近いですから、そのとき何が起きるかをロジカルに記述するのはとても難しくなります。
 しかももっと重大なことがあります。この数理経済学では、ほんの少し仮定を変えるだけで、つまり実体経済学的にはどうでもいいような仮定をどう置くかで、結果が大きく左右されるのです。それどころか実体経済学的には意味のないような仮定を置かなければ数学モデルにはならない、といったことも起きる。  私(佐伯)はもともと博士課程の経済学を学んだのですが、こんなことばっかりやっているとだんだん人間がみみっちくなると思ったものです。細かいことばかり気にして、論理の奴隷になっていく感覚に襲われました。そのとき考えていたのは、経済学はどんどん閉じていっている、ということです。
 数学という手法を使うと扱える対象が限られてきます。たとえば、企業はモノを生産する場だけではなく、信頼にもとづく人間関係の場であり、そこでは管理者のエートスが働き、従業員のやる気が作用し、企業の社会的イメージが結構大事なものであり続けます。しかしそんなことは数学的に表現されません。信頼関係や社会的イメージなどは数学理論にならない。そうしたものは数理分析からは排除されていきます。
 さらに、われわれがモノを買うときにもいろいろなことが起きます。純粋に欲しいという気持ち、見栄を張りたい、ほしくないが誰でも持っているから、CMに乗せられて、あるいは買い物中毒――――、消費行動においてこれらの区別は大事なことです。しかしこれらのどれも数学モデルにはなりません。すべて、消費者は合理的に満足を最大化している、という一語で片づけられます。
 アメリカの「市場主義はうまくいく」経済学は、こういう、ひとびとの消費動機さえ数理解析の変数にできない。これがいまやグローバルスタンダードになっていることを考えれば、日本の三本の矢がすべて的を外れても驚く人は少ない。なにしろ首相と日銀の「市場主義はうまくいく」経済学の根元には、どんな時代にも経済成長は可能だという、戦後すぐの、生活に必要なものが全く不足していた時代に生まれた、信仰と妄想があるのですから。