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丸山真男 『「文明論の概略」を読む』中(岩波新書)1/2

 第8講 歴史を動かすもの

 中巻 p49-51 p58-9

 福沢は言います。<古より英雄豪傑の士君子、時に遇ふ者、極めてまれなり。・・・・孔子も時に遇はずと云ひ、孟子もまたしかり。道真は筑紫に謫せられ、楠正成は湊川に死し、これらの例は枚挙にいとまあらず。>
 孔子孟子菅原道真も時に遇はずという、その「時」とはいったい何なのでしょうか。福沢はすぐにこう続けます。<孔孟の用いられざるは、周の諸侯の罪に非ず。諸侯をして之を用いしめざるものあり。楠氏の討死は後醍醐天皇の不明によるにあらず、楠氏をして死地に陥らしめたるものは別にあり。すなはち(王室を政権の主体としては見放しつつある)当時の人の気風なり、その時代の人民の知徳の有様なり。>
 孔子孟子菅原道真や楠正成が「時に遇っていなかった」のは、彼らの(思考を含めた)行動様式がその時代の人民の知徳の有様、その時代の「文明の精神」に適合していなかったからだと言うのです。だから「後醍醐天皇もとより正成の功を知らざるにあらずといえども、人心に戻りてこれを殊勲第一の列に置くをあたわず。・・・正成は尊氏と戦ひて死したるにあらず、時勢に敵して敗したるものなり」。

 では、中国の本人たちに自分の不遇を嘆かせ、日本でも道真の左遷や正成の戦死の遠因となった孔孟の教えのどこが根本的に間違っていたのか。この章では儒学の「政教一致」の基本が批判されます。
 儒教政教一致思想は、第一に<君主制以外の政治形態を知らない>古代中国の事態を前提にしていますし、第二に<学問と道徳が未分化>であることを自分たちは意識しておりません。この二つの前提が重なってはじめて、「教え=治者」→「学び=被治者」、という教育・統治に関する上からの一方通行的な儒教徳治主義の論理構造ができあがります。この点をしっかり押さえておかないと、福沢の政教一致批判は正しく理解できません。
 この「教え=治者」→「学び=被治者」の構造によるならば、「教える治者」は「学ぶ被治者」の質問に対して、正しい「道」を指し示さなければなりません。しかし、孟子が戦国時代の勝の悩める文公に 「勝は小国なり。斉楚にはさまれり。斉に仕えんか、楚に仕えんか」 と問われたとき、孟子は思わず地金を出してしまいます」。「その謀はわが能く及ばざるところなり」と答えてしまったのです。『孟子』に出ている有名な話です。
 もちろん福沢は「孟子には名策がなかったのだ」と嘲弄的に述べています。孟子はなぜそういう返事しかできなかったのか。
 福沢の基本理念は、孔孟のような大思想家とか大学者はたとえ政治の問題を論ずる場合でも長期的な視野と展望に立つべきで、その時々の時局状況に自分の理論を短絡させるべきではない、ということです。ところが孔子孟子は「終身、現実政治の範囲に籠絡せられて」、統治者のコンサルタントとか高級官僚になろうと諸国を遍歴していた。そういう世に入れられない、「やむなく官途に就かないでいる」という生き方の人に、理論や哲学のあり方を考えられないのは当然だ、とまことに厳しく突き放しています。