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バーバラ・W・タックマン 『八月の砲声』上(ちくま学芸文庫)

 第一次世界大戦西部戦線の激戦地はフランスだった。ドイツは150万の全軍を7軍に分け第1・第2・第3の主力3軍団をベルギー経由で反時計回りに動かす「シュリーフェン計画」をもってパリを攻略しようと考えていた。一方フランスは同じ150万を5軍に分け、第1・第2の主力を東部のアルザス・ロレーヌからこれも反時計回りに動かすという「第17計画」でドイツを南からつこうとしていた。この本では1914年の8月、開戦直後のフランス北方戦線における圧倒的なドイツ3軍団の進撃、それに立ち向かうベルギー軍のたった7個師団の果敢な反撃と無残な敗北、ドイツによるヨーロッパの支配を食い止めなければならない英仏必死の協力体制構築などが詳細に描かれる。

 この本は戦争小説でもなければ、各国の戦時体制のルポルタージュでもない。前線の戦闘シーンはまったく描かれず、後方の市民生活の模様も臨場感を持って書こうとはしていない。訳者あとがきによれば著者バーバラ・W・タックマンは伯父がフランクリン・ルーズベルト政権の財務長官を務めたという名門ユダヤ実業家系の女性で、若い頃から欧米有名評論誌の特派員記者としてヨーロッパ各国の政治・社会レビューを書き続けた人らしい。

 著者が上巻のどこかで言っているように、ヨーロッパでは古代・中世以来、いまからちょうど100年前の第一次大戦まで、戦争はつね日頃の国内外政治の延長線上で、いつでもどこでも起こりうるものだった。(すくなくとも先進国の)今と違って、国内外の政治は当時の社会上層の個人集団の戦いだったから、戦争にもその国内の闘争が色濃く反映していた。ちょうどアラブとアフリカで起きている争いが、それは国家間の戦争なのか宗派間の闘争なのか部族同士の殺し合いなのか、外側からでは簡単に決められないのと同じ状態が100年前まではヨーロッパにもあったということである。

 著者は上流ユダヤの人らしく、<A国の皇帝とB国の王とC国の陸軍元帥はしかじかの縁戚関係にあるので、現在の国内政治的立場にもとづく公式声明と縁戚関係からくる本音には若干ねじれたところがある>といったことをいたるところで書いている。このことが本書を、小説でもなくルポルタージュでもなく歴史書でもない、曖昧なものにしている。
 しかし本書は1962年にアメリカで出版され、ベストセラーになったらしい。翌年のピューリッツア賞(歴史部門)を受賞している。先祖の故郷が起こした第一次大戦を、ふつうの「戦争もの」としてでなく、支配階級の「個人集団の戦い」として捉えることは、アメリカの読書階級にとって新しい魅力だったに違いない。

 次に書き抜いたヨーロッパの王室の血縁関係は、すさまじいというか、人間の一方の欲望の象徴として、みごとなものだ。この構図の中では、1914年6月のオーストリア皇太子暗殺事件などは、飢えたイヌの群れに「それっ!」と投げ与えられた生肉にすぎなかった。大国の王と元帥には願ってもなかなかやってこない開戦の口実が突然天から与えられたのだから。

 p30-1
 1910年の英国王エドワード7世の葬儀に列席した各国代表の数は史上空前だった。エドワード7世はよく「ヨーロッパの伯父」と呼ばれた。ヨーロッパ各国の王室に関するかぎり、これはぴったりのあだ名だった。エドワード7世はドイツ皇帝ヴィルヘルムの叔父だったばかりでなく、王妃アレクサンドラの姉がロシアのマリー皇太后だった関係で、ロシア皇帝ニコライ2世の叔父でもあった。
 王の姪のアリックスはニコライ2世の皇妃で、王女モードはノルウェイ王の妃、もう一人の姪はスペイン王の妃だった。三番目の姪マリーは王の死後間もなくルーマニアの王妃になった。エドワード7世の王妃の実家デンマーク王室はロシアのニコライ2世の母やノルウェイギリシア王も出している。またヴィクトリア女王の9人の王子、王女の子孫は各親等にわたりヨーロッパ中の王家に入り、英国王室とは親戚関係にある。