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田中史生 『国際交易の古代列島』(角川選書)

 古代日本の政治と交易のかかわりを、闊達自在な文章で論旨明解に描ききった歴史書。卑弥呼の時代から平安初期までの膨大な史料を読み込み、かつ多くの研究者の仮説を丁寧に紹介しながら、それらを本書の道筋の強化にたくみに活用している。
 他人の学説や自説のエビデンスへの言及に終始し、本人が何を言おうとしているのかよく分からない歴史学者が多い中で、著者のような切れ味鋭い人がいたとは知らなかった。本書には歴史上の有名人がもちろん何人も登場するが、彼らが人として生き生きしているさまは、そのへんに転がる小説以上である。これから版を重ねて名著となっていくだろう。
 本書の内容を簡潔に知るには、「エピローグ」を抜き書きするのが手っ取り早い。きちんと整理されたいくつかの論点がどんなふうに著者の頭の中で整理されているかがよく理解できる。

 p238-40 

 エピローグ――中心と周縁の列島交易史

 歴史の中で、中心と周縁の関係は絶えずせめぎ合い揺れ動く。交易史には、そのダイナミズムがはっきりと刻印されている。もともと越境的な性格を持つ交易関係には、いくつもの中心―周縁の社会関係や人間関係が多元的、重層的に交叉している。だからこそ、特定の中心を相対化してしまう社会関係も築かれやすい。交易拠点は、まさにそのるつぼであった。
 弥生時代の西日本西部の発展は、東アジア海域交流・交易拠点の発展と密接に関係していた。その結節点となる列島西端の北部九州が倭人の有力勢力として成長したのは、中国大陸から朝鮮半島・日本列島へと向かう、東アジアの中心―周縁関係の影響を多分に受けている。
 けれども三世紀に入るころから、西日本東部の邪馬台国が、東日本との交流・交易の結節点として発展し、ここが連合諸国を束ねる中心となっていった。西からの東アジア海域交流・交易圏の刺激を受けながら、東方へと広がる列島諸社会の政治統合が開始されたとき、倭人社会の中心は、西日本と東日本をつなぐ場所に設けられたのである。
 ヤマトを中心とした倭王権の形成は、おそらくここを出発点とする。一方、東アジア海域との結節点であった北部九州には、(ヤマトの出先機関として)「一大率(いちだいそつ)」や「那津官家」といった官が置かれ、倭人の国際交流・交易を管理した。それは、政治的な秩序が異文化間の交易・交流の発展に寄与するものだったからだけではなく、この場所にもたらされるモノと、ここを結節点として結ばれる東アジア海域の中心と周縁の諸関係が、倭王権を軸とする中心―周縁関係を相対化し、揺るがす力を持っていたからである。
 そのあとの藤原京平城京律令国家は、(政治と交流・交易という)矛盾をはらんだ倭王権以来の権力構造を強化するべく、(当時まだきわめて曖昧だった)「国境」概念を中国から学んで、内部を中央集権的に体制化しようとした。彼らは対外関係を独占的に管理すると、国内においては天皇の姿を唐皇帝と重ねながら、舶来の奢侈品を優先的にかき集め、身分制に応じて分配し、天皇とその都の中心性を保とうとした。その一方、外交においては、唐を軸とする東アジアの中心―周縁関係を利用しつつ、新羅渤海とも交易品で競い合い、自らの国際的ポジションを高めようとした。  
 しかし、律令国家が当初想定していなかった海商の時代が到来すると、中央集権的に体制化した「日本」の中心―周縁関係が再び揺らぎはじめる。列島を越える交流・交易の強い諸関係が、北部九州で結ばれるようになったからである。これに刺激され、列島中央部だけでなく、列島の北方や南方でも交易社会が発展し、「日本」の結節点として、都だけではない新たな中心の胎動が始まった。古代国家は、こうした国際社会と連動した列島諸社会の変化に対応しながら、自らの姿を変えていったのだった。
 いつの時代も、分業を発達させ高度化する社会、競い合う社会は、越境的な交易関係を、強く求めあう。それは、互いの社会を結び付け、互いの価値の共有を生み出す一方、新秩序を欲し、新たな支配や中心―周縁関係をも生み出す。だから政治の役割もなかなか縮小しない。今の私たちはグローバル化がもたらす変化と不安に少々疲れ気味だが、歴史はむしろこうして動いてきたのだから、それと縁を切るのは歴史を止めるのと同じくらい難しい。