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巴 金 『寒い夜』(岩波文庫)

 舞台は日中戦争最後半、蒋介石の国民党下の重慶。半官半民の出版・印刷会社で校正係として働いている主人公・宣。並みの高等教育は受けたのだが、口数が少なく優柔不断で自分を主張できない性格のためにうだつがあがらない。父親が早く死に、しだいに不如意になる暮らし向きの中で、母親が子猫をなめるように育てた影響が大きい。
 宣には学生時代からつきあっていた美しく活発な内縁の妻・樹生がいる。地方銀行で下っ端として働いている。戦争もそれほどひどくはなかった時代、宣と樹生はやがては共同で私立中学校を設立し、新しい中国の発展に貢献する教育事業に乗り出すという野心も共有していた。しかしいまはそれどころではない。

 日本軍の侵略が中国全土でひどくなり、政界、経済界に何の手づるも持たない若者の人生計画などに一瞥をくれる人などいるはずもない。それどころか宣はいま、政府要人の序文が何十ページも続く誤字だらけの政策宣伝書や、党中央委員様の「名著」をはした金のような給料で校正することで、老いた母親と私立中学に通う出来のよくない息子を養わなければならない。その「名著」には、国民党が農民税制をどれほど改革し、人民生活の向上にどれほど資してきたか、ということが書いてある。もちろん(自分より多い)妻・樹生の給料がなくては、暮らしはまったく成り立たない。

  妻・樹生と姑である母親の女の憎み合いがなんともすごい。母親は当時としては教育を受けたほうなのだが、なんといっても纏足世代の中国女性である。樹生が内縁の妻であるとして、ちゃんと輿に載って嫁入りしてきた自分とは身分が違うというようなことを言う。いっぽう嫁・樹生は現代の教育を受け、一度は夫婦で教育事業に乗り出そうとした女性。おまけに美人で口が立ち、姑に対する敬語はきちんと使いながらも、夫と自分は同格であるということを隠そうともしない。

 物語の後半で、樹生が生活のために、彼女に気がある上司の世話で遠方に転勤することになる。姑は樹生が上司と関係するために息子を捨てたのだと勘ぐるが、そして夫もそれを疑うが、そんなことはない。しかし姑は樹生が任地の様子を知らせてきた文面をさっと見て、自分の思い込みは正しかったと誤読してしまう。彼女は「古い世代の中国女性」として、「腹を立ててはいたが、同時に、痛快に思い、得意にも思っていた。とっさには、これをいいニュースとさえ思った。自分の息子に同情してやらねばならないなど、思いつきもしない」ような女だった。

 

  物語全体のバックグラウンドにいる蒋介石は中華皇帝の名残りを十分にとどめている。その空気の中に育った世代と20世紀生まれの世代間の対立、中国独特の「家」の風習のなかで発酵しつくした嫁と姑の問題、息子によく伝わらない父の思い・・・、主人公・宣はこのあと結核を悪化させ、ひどい苦しみの中で死んでしまう。結核第四期から最期までのむごい苦しみ方が、ここまで書かなくても、と思われるほど詳細に文字にされているのはいささかつらい。

 作者・巴金は父まで3代にわたって県知事を務めた清朝末期の典型的な地主階級出身だという。自身の少年期に家は落ちぶれたらしい。若いときはバクーニンクロポトキンに憧れたアナーキストだったそうだ。