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宮崎市定 『西アジア遊記』(中公文庫)1/2

 オスマントルコでは、白人の地位は黒人とあまり違わなかった
 p41 トルコ共和国
 オスマントルコの近衛兵は主としてバルカン地方の白人傭兵で組織していた。ちょっと考えると、ヨーロッパの白人が甘んじてトルコ王室の傭兵となって、これに忠義を尽くしたのは不思議なように思われるが、それはわれわれが明治以後いつのまにかヨーロッパ的観念に誤られているからであって、元来西アジアにおいては白人の地位が低く、黒人とあまり違わない存在だった。
 このことは何よりも史実がよく証明している。帝政が末期に近づくまでは、トルコ軍に採用された白人部隊は、その待遇の向上を喜び、皇帝の殊恩に感激して忠勤にはげんだ。トルコが黒海、地中海地域を制覇したのにはこの白人傭兵の力が大きく与っている。
 当時、中東で文明人というのはトルコ人もしくはアラビア人のことをいった。彼らは古代からルネサンス期まで、千数百年にわたって、イスタンブールバグダッドという大都市を築き、インド洋を自由自在に大航海していた。マルグリット・ユルスナールの名著『ハドリアヌス帝の回想』には、ローマ五賢帝の一人トラヤヌスバグダッドまで版図を伸ばしたがその維持には大いに苦労し、次のハドリアヌス時代になってさっさと放棄したことが書かれている。この地はヨーロッパの新興勢力が占領を続けられるヤワな地域ではなかったのだ。
 ことにあの十字軍では、キリスト教国連合軍は悪逆非道の限りを尽くしただけで、戦争としてみるべき成果は挙げられず、ヨーロッパに対するアラブ人の侮蔑は高まるだけだった。だからトルコのバルカン征服は文明人が野蛮民族を征服したということであって、彼らを傭兵に使うのはちょうど漢帝国唐帝国西戎諸国民を傭兵に用いたと同じ意味なのだ。

 それは宗教にもいえることで、イスラム教こそ最上位にある崇高なもので、(預言者にすぎないイエスを神と同格に置いたり、死んだ人間が生き返ったりする)キリスト教は下等社会の一段劣った宗教とみなされた。バルカンのヨーロッパ人がキリスト教からイスラム教に改宗するのは、中国東北部の蛮人が中華の風に化したようなもので、文明の間に段階の差のあるときは最も自然な成り行きだった。
 
 シリアから、ヨーロッパと西アジアのすべての宗教が生まれた
 p196
 シリアは中国とローマを結ぶシルクロードの要衝にあって紀元前から繁栄を極め、必然的に四方の民族雑居の地ともなっていた。
 このため宗教もまた鹿の子マダラ状態であり、シリア古来のバール神偶像教のほかペルシャの拝火教やミトラ教ユダヤ教キリスト教が雑然と行われていた。そのなかでキリスト教についていえば、シリアのキリスト教こそもっともその発祥地に近く、正統を主張すべき地位にあった。
 この地生まれのネストリウスは正しく正統的意見を代表し、著しくギリシア・ローマ化された官僚的教会の三位一体説に反対して、キリストの神性を否定した。もちろんローマ皇帝の主宰する宗教会議はネストリウスに異端を宣告し、彼は国外に追放され信徒は迫害された。この事件はキリスト教の偶像教化の始まりを示すものであり、同時にローマ教会のいっそうの堕落と官僚化を決定づけるものだった。
 この当時、ヨーロッパの思想界は低調だった。シリア以東の宗教的・哲学的思索にはるかに劣っていた。シリア以東ではキリスト教と拝火教が混合し、厳格な戒律を求めるマニ教ペルシャに生まれた。かのアウグスチヌスも若いときにずいぶんその主張に共鳴したものであるらしい。インドの仏教ペルシャに入って、とくに東部ペルシャに浸透した。ユダヤ教もまたメソポタミアに栄え、バビロンでは聖典タルムードが編纂された。
 原因は東ローマ帝国が異端排斥にのりだしたことにある。思想犯は比較的寛容なペルシャ領内に逃げ込んだわけである。亡命知識人を受け入れたペルシャはその見返りとして商業的な繁栄を手にしたが、思想的にはもちろん無政府状態ともいうべきものが現われた。そしてここに、ムハンマド新宗教運動が勃興する契機が潜んでいた。