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佐高 信・早野 透 『丸山真男と田中角栄』(集英社新書)

 佐高信早野透の対談本。丸山と田中に接点があったのか?と驚いて買ったが、そういうことではなかった。
 早野透元朝日新聞の記者。田中角栄という桁を外れた男に惚れこんで、新潟支局に志願転勤してまで角栄番を続けたらしい。『田中角栄 戦後日本の悲しき自画像』などの著書がある。早野透はしばらく前、、戦後民主主義の上半身は丸山真男が作り、下半身は田中角栄が作ったという「名言」を吐いたそうだ。この本でも何度も触れられている。

 p180あたり
 戦後民主主義の上半身は丸山真男が作ったものです。それは、江戸期以前にもさかのぼる日本的主体――というか没主体――の検証、そういう没主体による「自覚なき超国家主義」、それをさらに底辺で支える「愛国婦人会」的エートスなどを、論理のまな板に載せて読者と悔恨を共有しようとする近代主義者の努力のたまものだった。
 丸山が上半身を作ったのに対して、戦後民主主義の下半身は田中角栄が作っものです。二人の間に直接のつながりがあったわけではもちろんありません。
 田中が出た当時の世評とは違って、日本の今後の進路は平和と福祉につきるというのが『日本列島改造論』の眼目です。それを戦後社会の到達点にしているんです。角栄は、戦前からの国家主義を排して、戦後精神のすべてを橋とトンネルと道路に還元した。生活とは要するにそういうことであって、精神の方は誰かがちゃんと考えてくれと。
 『日本列島改造論』のなかに憲法論議が出てくる。・・・・・一億を超える勤勉の日本人が軍事大国の道を進むことなく、・・・・・・私たちが今後とも平和国家として生き抜き、・・・・・・敗戦の焼け跡から今日の日本を建設してきたお互いの汗と力、知恵と技術を結集すれば・・・・・“人間復権”の新しい時代を迎えることは決して不可能ではない。
 はっきり分かるように田中角栄の思想の中には「国家」がないんです。というより、国家をプラグマティックに、中性的に捉えて、国の役割を平和と福祉に限定し、人々の内面には入らないということです。つまり、どう生きるかについては国家や政治は介入せずに、ひとりひとりの国民に託す。
 ところが戦前の軍部から今の安倍に連なる連綿と続く系譜は、国民に対して、汝はかくあるべきだと必ず言い出す。丸山真男風に言えば、肉体を支配する国家と魂を支配する教会の両方の権力を持とうとするかのようです。彼らは田中角栄のように国家をプラグマティックに、中性的に考えられないのですね。真理とか道徳に関して中立的立場をとり、そうした価値判断はもっぱら他の社会的集団や個人の良心にゆだねる・・・・、そういうことを考えられない人たちなんですね。