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森鴎外 『青年』(昭和出版社 鴎外作品集第3巻)

 日本が近代化して半世紀、新しい文学を新しい頭脳で開こうとする若者の芸術論と、時代などでは変わらない恋ごころが、どちらも正面から扱われる。鴎外48歳、1910年の刊行。漱石の『三四郎』(1908年、42歳)に大いに触発されて書いたものらしい。生真面目な鴎外はこの小説の中で、漱石の桁違いの学殖や文章技術について最大限の賛辞を述べている。
 『三四郎』では、三四郎は熊本の田舎から「どこまで行っても街がなくならない」大東京にポッと出てくる。そして自分の学校にある、(のちに三四郎池と呼ばれるようになった)大きな池の端で、都会の女・美禰子の視線に出会い、一生消えないような焼き印を胸に押されてしまう。美禰子は、「その巧言令色が、努めてするのではなく、ほとんど無意識に天性の発露のままで男を虜にする、もちろん善とか悪とかの道徳的観念もないでやっているかと思われる・・・・」ような、漱石作品によくあるタイプの、男を惑わす女性である。
 鴎外の『青年』で三四郎にあたる主人公の名は小泉純一。美禰子の役を演じるのは帝大法学部坂井教授の未亡人・れい子。老教授の娘といっていいほど若い、美しい人である。しかも静かに夫の跡を弔っているということはなく、教授が生きていたときよりも派手な暮らしをしているという噂がある。
 純一が医学・哲学・文学にくわしい友人・大村と数寄屋橋の有楽座にフランス演劇を見に行ったとき、その坂井未亡人が若い女二人を連れて純一の隣の席に座ったのだった。未亡人はいかにも世間になれた上流夫人の闊達さで、当夜の演目のあらすじなどを純一に尋ねる。まだ20歳にもならない年頃だから、純一はそれを真に受けて、劇の展開などを得意になって説明しようとする。

 p50
 奥さんは 「おや、あなたフランス学者?」と言って、何か思うことがあるらしく、にっこりと笑った。落ち着いた、はっきりした声である。そしてなんとなく金石の響きを帯びているように感じられる。しかし純一には、声よりは目のひらめきが強い印象を与えた。横着らしい笑みが眼の底に沈んでいて、口で言っている言葉とはまるで別の表情をしているようである。
 都会に慣れない純一にはその表情がどういう感情に根ざしているのか、まったく分からない。未亡人は芝居がはねて劇場を出るときに、「宅にはフランスの古典演劇の本もたくさんあるから、いつだってかまわないのでぜひ見にいらっしゃい」というリップサービスまでしてくれる。「これから世界を知り抜いてやるのだ」との意気込みが純一の顔じゅうに見えるものだから、未亡人は純一をからかうのがおもしろくて仕方がない。本を借りに行くと、「今年の暮れは箱根にいるから、ラシーヌなどのお話をそこで聞かせて頂戴」などといって、純一を翻弄する。
 純一は未亡人の肉の誘惑を感じる。しかし純一の自制力は未亡人の目の表情と口から出る言葉が一致しないことを疑う。「自分の中では、奥さんと会って以来、ある希求にともなう不安の念が次第に強くなってきた。自分は極力それを斥けようとした。しかし斥けてもまたくる。敵と退陣してこぜりあいの絶えないようなものである。」・・・・・そして、逡巡の末に若者らしい行動を決意するのだが、結果は、「恥辱を語るページを添えたくはない」と日記に書かざるを得ないことになる。(p102)

 筋の一部を『三四郎』に借りているのだが、純一は小説の主人公としては三四郎よりも世間との交渉や摩擦がずいぶん少ない。これは堅い軍人の鴎外と市井にも通じた漱石の、生活人としての差だろうか。そういえば、と言えるかわからないが、この小説の冒頭近くで鴎外が自分のことをこっぴどく貶している。思わず笑ってしまった。 p6
 これが鴎村(鴎外のこと)の家か。干からびた老人のくせに、みずみずしいい青年の中に入ってまごついている人、そして愚痴と嫌味とを言っている人、竿と紐尺を持って測量士が土地を測るような小説や脚本を書いている人のことだから、いまごろは苦虫をかみつぶしたような顔をして起きて出て、台所で炭薪の小言でも言っているだろうと思って、純一は身震いをして鴎村の門前を立ち去った。