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森鴎外 『大塩平八郎』(昭和出版社 鴎外作品集第5巻)

  天保8年(1837年)、大坂町奉行所の与力・大塩平八郎は、米の値段が騰貴し、貧民が難渋しているときに乱を起こした。この暴動の原因はただ一つ、飢饉である。
 天保3年(1832年)頃から天候が長期的に不順になり、ひどい不作が続いた。天保7年の作柄は全国平均で平年の30%ほどだったといわれている。米の相場は作柄に反比例して上昇し、天保初年の大阪では1両で150kgほどの米が買えたのに、天保7年になると50kg弱しか買えなくなった。3倍以上も高騰して平民は米を食べられなくなってしまった。
 p70-1
 大塩は貧民の味方になって官吏と富豪に反抗した。そうして見れば、この事件は後の世に言う社会問題に関係している。もちろん「社会問題」という名称は西洋も18世紀になって、企業家と労働者の間に生じたものではあるが、その萌芽はどこの国にも昔からある。貧富の差から生じる衝突はみなそれである。
  もし平八郎が、人に貧富の別の生じるのは自然の結果だから、成り行きのままに放任するのがよいと個人主義的に考えたら、暴動は起きなかっただろう。
 もし国家なり自治団体なりに頼って、当時の秩序を維持しながら救済の方法を講じることができたら、彼は一種の社会政策を立てただろう。また、徳川専制社会になるまえから自治団体としていくぶん発展していた大阪に、平八郎の手腕を振るわせる余地があったら、暴動は起きなかっただろう。
 この二つの道がふさがっていたので、平八郎は当時の秩序を破壊して望みを達しようとした。平八郎の思想はいまだ覚醒せざる社会主義であった。平八郎は極言すれば、天明飢饉以来それまでに幾たびか起きた米屋壊しの雄である。天明においても天保においても、米屋壊しは大阪から始まった。平八郎が大阪の人であるのは決して偶然ではない。
 平八郎は義士であり哲学者であった。しかしその良知の哲学からは、頼もしい社会政策も生まれず、恐ろしい社会主義も生まれなかった。