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阿部謹也 『中世賤民の宇宙』(ちくま学芸文庫)1/2

 P53
 抽象的「時間」は中世にはじめて生まれた
 水時計、砂時計、火時計は、水が流れ、砂がこぼれ落ち、蝋燭が燃えるという地球上の物理量の変化によって時の経過を測る。この意味で水時計や砂時計や火時計は「地球的時間」の尺度である。これに対し11世紀に発明された歯車時計はまさに地球の重力を中断させ、間歇的に失効させるものであり、星辰や地球といった自然的実体によらずに時の経過を測ろうとするものである。だから歯車時計が表示するのは「抽象的時間」、「知性的時間」ということができる。歯車時計の案出こそは、重力というものに干渉しようとする近代文明のライトモチーフとは言わないまでも、ヨーロッパ近代文明を他のすべての文明から際立って異なるものに成長させる、その端緒だった。

 P86
 近代は、合理と非合理を区別しない近代以前を葬らずにはいない
 近代以前の狩猟・農耕社会では、神話へと固定された何らかの事件が一つの氏族などのの聖なる原型となって語り伝えられてゆく。このような生活の中では過去と現在の間に明瞭な区別はない。過去が常に後の出来事の中に流れ込み、彼らの現在を構成するものとなる。
 彼らの「現在」の価値は相対的に失われるかに見えながら、それは容易に失われない奥深い内容によって満たされる。現在が神話となった過去と直接にかかわることで永遠の一部になってゆくからだ。この社会においては、現在の生活とは単なる移ろいゆくだけのものではなくなり、「永遠」にかかわる高次なものとして、そこに生きる人々の(精神)生活全般を支配する。
 神話を非合理の一語で片づける近代は、合理と非合理を区別しない近代以前を葬らずにはいない。アイヌ江戸幕府に酷使され、アメリカ大陸の先住民がヨーロッパ諸国に滅ぼされたのも、一言で言えばそういうことである。

 p118−20
 賭ける「普遍的価値」がないゆえに、日本の「誓約」にはなんの意味もない
 世界がキリスト教化されるまでは、古代から中世にかけてはどこでも「相互贈与」が社会の基礎にあった。ユダヤでもヨーロッパでも、食事の席に招待することが人間関係維持のための欠かせない贈与であり、贈与にはお返しがくるのが当然とされていた。
 ところがイエスは「ルカ伝」においてこのことを否定した。イエスは自分を招いた人に言ったという。「食事の席を設ける場合は、友人、兄弟、金持ちの隣人などは呼ばぬがよい。儀礼的に彼らはあなたを招き返すだろう。むしろ宴会を催す場合は、儀礼だけのお返しができない貧乏人、不具者、盲人などを招くがよい。そうすればあなたは、天国への準備としての善行(貧者への喜捨)を積んだことになり、幸いになるであろう。」
 ヨーロッパ全体がキリスト教化された10世紀ごろ、このイエスによる贈与慣行の転換は、信者にとって彼岸を媒介とするものであった限りで、各個人の命を賭けた転換だった。死後の救済への期待と惧れが、きわめて牢固だった一般大衆の贈与慣行の転換を促したのである。
 ヨーロッパにおいて誓約が大きな意味を持っているのも、この死後の救済への期待と惧れと強い関係がある。わが国において誓約にほとんど何の意味もないのは、そこに普遍的なものが何一つ賭けられていないからである。
 しかし上記のイエスが説いた「天国への準備としての善行」は、中世後期に近づくころカトリック教会によって「地獄に落ちないための免罪符制度」に変質してゆくのだが・・・・・・・。