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ホッブズ 『リヴァイアサン』(岩波文庫)

 ホッブズは1588年に生まれ1679年に死んだ。つまり、政治ではエリザベス1世からクロムウェルピューリタン革命期を経て議会君主制へ、宗教ではローマカトリックから英国国教会へと、国の形が大きく変わろうとしているときに、成年してからのすべての年月を過ごした。クロムウェル革命直前のこと、ホッブズの身の回りでは、ルター派カトリック攻撃が凶暴さを増し、反撃するカトリック側も爆弾を持って新教徒を襲うなど、文字どおり <社会の中には、各人の各人に対する戦争がつねに存在>していた。
 『リヴァイアサン』が刊行されたのは1651年、クロムウェルの革命は成功したがそのピューリタニズムのあまりの厳格さから市民の反感を買い、国王が亡命先のフランスから呼び戻されるて王政が復活するという、一寸先の世の中が読めない時代だった。
 こんな時代に、毎日まいにち学者や貴族たちとの政治論にもまれていれば、その彼の思想は穏健、平和的なものになるはずがない。事実、ホッブズは意見を異にする知人たちからあるときは王党派、あるときは革命派と目され、家庭教師としてつかえた有力貴族のお供をしながら三度も大陸に亡命している。
 その亡命旅行の途中、フランシス・ベイコンの秘書の一人なっていたホッブズは1635年頃、ベイコンや勤め先の貴族の口利きで、デカルトガリレオ・ガリレイに会ったりしている。ヨーロッパの近代は、ロンドンやパリやアムステルダムの貴族のサロンで、こうした天才たちが毎日のように会って話をしていた時代なのだ。

 リヴァイアサン』は政治思想書の大古典だが、第13章「人類の至福と悲惨に関するかれらの自然状態について」が面白い。というか、文学書ではないので、この章以外は、政治思想「史」、つまりその時代の「政治環境と思想家の関係」に特別の興味がなければ、よほどの勉強家でなければ読み続けることがむずかしい。私はもちろん怠け者だ。
 シェイクスピアホッブズより一世代ほど前の人である。シェイクスピアに登場する人間がなぜあのように「劇的」なのか、この13章だけを読むだけでも、そのことがよく理解できる。ジェントリー以上の階級にとってはまさに「劇的」な時代だったのだ。もちろん平民にとっては「人生を劇的と思いたい人にだけ劇的だった」(小林秀雄)のだが。

 <人びとは生れながらに平等である>
 自然は人びとを心身の諸能力において平等につくった。しかしその平等の程度は、ある人がそのちがいにもとづいて、他人に対する圧倒的な便益を言い立てられるほど顕著なものではない。すなわち、肉体の強さについていえば、もっとも弱いものでも、ひそかなたくらみや他の人との共謀によって、もっとも強いものを殺すだけの強さを持つのである
 <平等から不信が生じる> 
 能力のこの平等から、目的を達成することについての希望の平等が生じる。だから、もし誰か二人が同じものごとを意欲しながらそれを享受できないでいるとすると、彼らはたがいに敵となる。そして、彼らの目的への途上において、たがいに相手を滅ぼすか屈服させようと努力する。
 <不信から戦争が生じる>
 この相互不信から自己を安全に保つには、先手を打つことほど妥当なことはない。強い力または奸計によって、できるだけ多くの人をできるだけながく支配することである。そしてこのことは、彼自身の安全を保障するところを超えるものでなければ、一般に許されている。そうでなければ、守勢に立つだけでは、彼はながく生存できないであろう。
 <人間社会の中には、各人の各人に対する戦争がつねに存在する>
 
これによって明らかなのは、人々が、彼らすべてを威圧する圧制権力なしに生活しているときには、彼らは戦争とよばれる状態にあり、そういう戦争は、各人の各人に対する戦争である、ということである。戦争の本性は、実際の闘争のなかにあるのではなく、社会が平和に向かっているという何の保証もない状態においては、人々は闘争への明らかな志向を持っている、ということのなかにある。
 これらのことをよく考えたことのない人には、自然が人々を、このように分裂させ、相互に侵入し滅ぼし合わせるということは、不思議に思われるかもしれない。しかしこれらのことは経験によって簡単に確かめられるのである。
 彼が旅に出るときに、自分は武装し、かつ十分な同伴者とともに行くことを求めるということ、彼が眠るときに扉に鍵をかけるということ、彼が家にいるときでさえ自分の金庫に鍵をかけるということ、しかもこれらのことは、彼が被害を受けた場合に復讐してくれる法律と武装役人がいることを、彼が知っている場合にもそうなのである。
 <このような戦争においては、何ごとも不正ではない>
 
各人の各人に対する戦争の状態では、「正・不正」の観念は存在の余地を持たない。各人共通の権力がないところに法はなく、法のないところに不正はないからである。強い力と欺瞞こそ、戦争における主要な徳性である。正義と不正は、戦争にあっては、肉体または精神のいずれの能力にも属さない。