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池澤夏樹 『氷山の南』(文春文庫)

 南極大陸から海へせり出した1億トンの巨大な氷山をオーストラリアまで曳航しようとする「冒険小説」。南極海で氷山を探す探査船の名はシンディバード。アラビアンナイトに出てくる船乗りシンドバッドのアラビア名だ。
 読み始めたとき、1億トンの巨大な氷山をオーストラリアまで曳航するとはあり得ないと思った。しかし池澤夏樹は理系の知識がなければ書けないことをいくつもとりあげるが、その際いい加減な知識を披歴することはない。現実にも、サウジアラビアの王子の出資で1977年アメリカのアイオア大学が同じような構想を進めたことがあったらしい。1億トンといってもそれは質量の話で、実際は氷山は水に浮いているのだから、一億トンの超巨大トラックを地上で動かすのとは理屈が違って、2000馬力くらいのタグボートがスーパータンカーを曳航できるのと原理的には似た話なのかもしれない。(2000馬力なんて大きなメルセデスたった4台分のパワーだ。)

 シンディバードは「氷山利用アラビア協会」に所属している。船主はドバイの族長で計画全部の費用を提供していて、曳航計画全体を仕切るDD(ドクター・ドレッドノート、またの名をドクター・ドラゴン)という冷静沈着な恐るべき初老女性、氷山をカーボンナノチューブの網で包みタグボートにつなぐ専門家、曳航中に氷山を割ってしまうクレバスがないかを探査する技術者、オキアミなど氷海の生物資源を研究する若くて美人の生物学者、そして船長以下の操船クルーが乗り込んでいる。
 シンディバードに乗るこれらの人々の出身地、民族は多様多彩。イギリス人、アラビア人、フランス人、中国系アメリカ人、パキスタン人、フィリピン人、ギリシア人・・・・、彼らの出自は船の中では一切問題にされない。ロシア文学者の沼野充義氏が「解説」で言っていることだが、冒険小説であり一種のユートピア小説でもあるこの作品で、船の名前として「シンドバッド」ほど相応しいものがあるだろうか。

 その中に日本で15歳まで育ち、マオリ族との先住民交換奨学生としてニュージーランドの高校を出た18歳の少年ジン・カイザワが、密航者としてもぐりこみむ。ジンは、母親が4分の3、父親が4分の1アイヌの血を引いている。半分アイヌであるジンは、最初はDD(ドクター・ドレッドノート)に「海に投げ込むわよ」と脅されながらも、そう言う彼女は苦り切った顔をしながら微笑しており、多民族乗合冒険船の一員としてあっさり受け入れられる。ジンは密航者に対する形式的な罰として一晩だけの船倉「留置」で解放され、であくる日からは炊事手伝いと船内新聞発行という仕事を与えられる。
 600ページ近い大作だが、読者は飽きることなく知的で愉快な冒険を楽しむことができる。巨大な氷山をカーボンナノチューブの網で包みオーストラリア近海に曳航されるまで、大小の起伏のあるさまざまな挿話が語られる。その中で最も深刻なエピソードが「アイシスト」と呼ばれる教団の話。アイシズムとは<氷=生命に欠かせない水分子の不動状態>を崇め、高度産業社会の無益な欲望解放を憂うヨーロッパ特有の思想だが、かれらは捕鯨に対するグリーンピースとは違って暴力による妨害はせずに、もっとエレガントな策動を仕掛けてくる。
 結局はこのアイシストによって巨大な氷山曳航計画は意外な結果に終わるのだが、読者はべつにそれで落胆するわけではない。氷山の水によるオーストラリアの農耕地の灌漑という利益、それを主宰するアラブの利権、知能犯的に妨害する(自分たち自身が昔はさんざん自然破壊をしてきた)アイシストたちの主張・・・・・、現実の中で何かをしようとする私たちにはいつも「想定外」のことが起きるが、(これも沼野充義氏が言っていることだが)未来というのは「想定外」の向こう側にしかないということがこの「明るく楽しい大航海冒険小説」を読み終わると、あらためて見えてくる。