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丸山真男 『「文明論の概略」を読む』上(岩波新書)3/3

 第5講 国体・政統・血統―――国体の定義

 上巻 p167-8
 幕末・維新期は西欧列強の帝国主義政策によって日本の独立が激しく揺さぶられたときでもありました。いわゆる「国体」の維持をめぐる大変な時期です。この「国体」という言葉ほど、日本の近代を通じておどろくべき魔力をふるい、しかも戦後、急速に廃語になった用語は少ないでしょう。福沢はこの「国体」について<その人民、政治の権を失ふて他国人の制御を受くるときは、国体を断絶したるものと云ふ>と明解な考えをあらわしています。ですから彼の定義によれば、日本はこんどの敗戦において国体は一時断絶したことになる。マッカーサー司令部の力に天皇が従属したのだから、国体は断絶した。この場合、君主がいても統治権を持たないのだから、国体が続いているとはいえない。
 ポツダム宣言受諾をめぐって最後まで御前会議で紛糾したのが、国体が変更されるかどうかということでした。あんなギリギリに至るまで、支配層の中でさえ国体についての定義が決まらなかったのです。明治以来それまでに定義が明白になっていたなら、もめることはなかった。
 ポツダム宣言ではただ「日本国の将来の統治形態は日本国民が自由に表明した意思によって決せられる」とあるだけです。日本側は「君主制は維持されるのか」と問い合わせます。そして連合国の回答はポツダム宣言を繰り返すだけでした。そこで、これを受諾することではたして国体が維持されるかどうかで最後まで解釈が分かれ、結局最後に、天皇が自分は護持されたと解釈するという「聖断」を下したので終戦が決まるのですが、宣言の解釈が決まらず、御前会議がもめているあいだに原爆が投下されたのですから、御前会議の不決断はずいぶん大きな犠牲を払ったものです。

 第6講 文明と政治体制―――政府の体裁のおける名と実

 上巻 p239・242
 福沢の政治論の基本命題は、<すべて世の政府は、ただ便利のために設けたるものなり>というものです。維新直後においては、大変にショッキングな命題だったはずです。
 今日では誰でもこの程度のことは言うでしょうが、これが書かれたのは、お上というものは絶対であり、お上のありがたい御恩のおかげで、私ども庶民は安穏に生活できるのだという考え方が、ほとんど疑いもされず通用していた時代です。君臣の義は五輪の筆頭に位し、それは人の天性であると朱子学が教えていた。
 それだけでなく、幕府のことを公儀というように、公というのが政府であった。そのように政治権力が絶対視されていた時代に、福沢は「政府は、世の人々が生活しやすいように、もろもろの制度や文物を整えていくためにだけ存在しているのだ」と大胆なことを言ったのです。
 ・・・・・・だから福沢は「君主制も必ずしも不便ならず、共和制も必ずしも良ならず」といって、政治は社会の一ファンクションにすぎないと念を押します。イギリスやオーストリア君主制がいいからと言って、清朝のそれもいいと言うわけにはいかない。アメリカの共和政がいいからといって、革命直後のフランスの苛烈な共和制にならうわけにはいかない、と。
 プラグマティストでもあった福沢は「名を争ふて実を害する」ことこそ、日本の深い精神病理である「惑溺」そのものである考えていました。もし福沢が現代に生きていたら、おそらく、「社会主義」国家や「民主主義」国家という名にとらわれてはいけない、とここで言ったでしょう。