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アンドレ・ジイド 『法王庁の抜け穴』(新潮文庫)

 アンドレ・ジイドは死後、著作がすべてローマ法王庁から禁書に指定された。『狭き門』では恋人の神への自己犠牲の心を、それは真に率直な人間精神ではありえないとし、キリスト教の偽善に抗議し続けた。1951年に没したが、20世紀全体にわたって日本でも、とくに学生は、何冊かを読まなければならない人だった。この作品も冒頭から、カトリックの事大主義に対する冷笑がところかまわず出てきて、私のような坊主嫌いをスッキリさせてくれる。

 話が進むにつれて、百足組というチンピラ詐欺集団が法王を無理やり退位させ、いまは替え玉が位についている、という面白いネタが出てくる。よく似た陰謀事件が実際にあったらしい。この時代、陰謀といえばフリーメイソンなる実体不明の友愛結社の仕業と相場が決まっていたから、この百足組事件もフリーメイソンの策略だとされた。近世ヨーロッパでは知性があって少し変人の有名人はフリーメイソンを疑われ、トルストイゲーテも疑われた。あの鳩山由紀夫がそうだといわれたことは面白かった。

 それはともかく、サンピエトロ大聖堂には万一の場合に法王を脱出させる地下道が中世に造られており、百足組はそこに法王を監禁していると世間は信じたようだ。
 その世間の噂によれば、ひとりひとりの上流名家が何万フランも喜捨し、階級全体で莫大なカネを用意すれば元の法王を復位させることができる(!)。が、そのためにはパリとローマの枢機卿はじめ何階層もの高位聖職者にわたりをつけ、恐ろしいほどの宗教官僚の階段をジグザグに登りあるいは下らねばならない。そうやって初めて何ごとも最終的にうやむやになって法王が復位し、あやしい替え玉はいつの間にかめでたく消えてしまうことができる。キリスト教会制度は安泰が保たれ、この小説に登場する高貴な女性信心家たち(彼女たちは「ありがたや」とルビが振られている)のまことしやな心の平安が維持されるというわけだ。 

 保守派の信徒新聞はいつも「わたしたちは神に多額の借財がある。本紙読者の日曜ごとの喜捨はその万分の一の返済なのです」とまじめくさって書いている。その保守派業界紙の載せた下の論評が、この事件についての教会と信心家(ありがたや)たちの反応をよく表している。金はあなたのお寺にだけお払いなさい、というわけだ。

 p213

 信徒諸賢に、この際、切に御警戒ありたきことは、僧侶の仮面をかぶったフリーメイソン無神論者)の横行である。この男らはわれらが僧会の会員を偽称し、元法王救出の秘密の使命を帯びているごとく装いつつ信徒諸賢の信頼につけ込み、<法王救助十字軍>と名付けた企画のために金銭を搾取して回っている。かかる企画の名称を見ただけでも、すでにその事実の荒唐無稽であることは明らかといわねばならない。

  翻訳者・生島遼一によれば、ジイドの永年の友人である有名なカトリックの劇作家ポール・クローデルはこの作品を強く非難し、出版を思いとどまらせようとしたという。ジイドの攻撃が誠実なカトリック教徒であるクローデルの許容限度を超えていたからだ。しかし誠実という点では、ジイドもクローデルに負けない誠実な人である。