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ジャック・モノー 『偶然と必然』(みすず書房)2/3

第6章 細胞の不変性と擾乱 

p129-131

 現代物理学がわれわれに教えるところによれば、絶対零度以外の環境下では、いかなる微視的存在も量子的な乱れをこうむらざるをえない。これが巨視的な系の中で蓄積すると、徐々にではあるが間違いなく構造の変化をきたすことになる。
 生物は正確な遺伝情報の翻訳を保証している完璧な保存機構を持っているにもかかわらず、やはりこの法則から免れることはできない。多細胞生物の老化と死は、少なくとも部分的には、翻訳の偶発的な間違いの蓄積、つまり一度間違った翻訳情報が正確に翻訳され続けるということで説明できる。複製の間違いは、盲目的な忠実性を持つ機構のおかげで、そのまま自動的にふたたび複製されていく。そして生物の構造を仮借なく少しずつ崩壊させていく。

 この微視的擾乱つまり突然変異はつぎのような原因に帰せられることが分かってきた。

1 ひとつのヌクレオチドの対が他の対に置換される

2 ひとつあるいはいくつかのヌクレオチドの対が欠損するか、あるいは付加される

3 まちまちな長さのDNAが倒置されたり、繰り返されたり、転置されたり、融合されたりして、遺伝暗号のテキストがいろいろな具合に「かきまぜられる」。

 この変化は偶発的なものであり、無方向的なものである。そして、この変化が遺伝のテキストの変化の唯一の原因であり、このテキストが生物の遺伝的構造の唯一の貯蔵物なのであるから、必然的に、生物圏におけるすべての新奇なもの、すべての創造の源はただ単なる偶然だけにあるということになる。

 

第7章 進化  偶然を引き起こす源泉

p139-41

 生物はほとんど完全な複製装置を持っているので、ひとつひとつの突然変異はどれも非常にまれな出来事ということになる。たとえばバクテリアでは、あるひとつの遺伝子が突然変異をこうむる確率は、細胞世代ごとに100万分の1、ないしは1億分の1といったオーダーである。しかしバクテリアは数ミリリットルの水の中に数十億個も殖えることができる。このような集団では、そこに生ずる特定の突然変異体の数は100から1000程度はあると推定される。あらゆる種類の突然変異体は10万から100万はあるだろう。
 高等生物、たとえば哺乳類の集団はバクテリアほど大きくはない。しかし哺乳類の細胞はバクテリアの1000倍もの遺伝子を持っている。その分突然変異の公算も大きくなって当然だろう。

 ・・・・・(1970年当時)約30億の人類は各世代ごとに1000億ないし1兆の突然変異を起こしていることが推計される。私がこの数字をあげたのは、ある生物の遺伝情報が偶然に変化する可能性がいかに莫大なものであるかについて、一つの目安をつけてもらうためにすぎない。複製機構がきわめて厳格に自己保存を行っているにもかかわらず、生物は変わっていかざるを得ないということである。そしてその変化がその種にとって合目的的であり、淘汰圧に対して有利にはたらいたとき、進化という「先祖の夢」がなしとげられつつあったように、はるか後世代のものには見えるのである。

 そういう、「先祖の夢」がなしとげられつつあるかのような、はるか後世代のものには合目的的と見えるのひとつに、①人類の直立2足歩行 ②頭蓋の位置の変化 ③FOXP2遺伝子の獲得 という進化現象がある。このうち②は、①の結果として体のバランスを保つために起きたといえるので、①と②は一連の変化としてもいいのだが、③のFOXP2遺伝子は約20万年前にアフリカの初期人類に突然変異としてあらわれ、集団に定着した(ランダムな突然変異が自然選択された)とされる。

 FOXP2遺伝子は、脳内で言語の神経回路を発達させるのに欠かせないヒトの遺伝子であり、類人猿が持つ類似遺伝子とはアミノ酸がわずか2つだけ違っている。FOXP2に欠陥があると時制の一致などの文法だけでなく、複雑な文を理解したり、文字数の多い単語の語源を推測することなどができなくなる。
 偶然とは恐るべきもので、②によって咽喉の構造が発話に都合よく変わったまさにその時代、まるではかったようにこの突然変異は起きた。そして、人類は単純な「声」だけでなく複雑な「言葉」を発することができるようになった。