アクセス数:アクセスカウンター

ジャック・モノー 『偶然と必然』(みすず書房)3/3

第9章 王国と奈落 現代社会の遺伝的衰退の危険

p191-2

 すこし昔は、比較的「先進的」な社会においてさえ、身体的に言っても、また知的な面からいっても、不適者の排除は自動的で残酷なものであった。大部分のものは思春期の年齢まで生きることができなかった。
 そして今日では、これら遺伝的障害者の多くが、子孫をつくれる年まで生きられるようになっている。これまでは種を衰退――自然淘汰がなくなれば衰退は不可避である――から守ってきた機構が、知識と社会倫理の発達のおかげで、非常に重大な欠陥を持っている場合に以外には、もはやほとんど作用しなくなっている。
 このことの危険性はしばしば指摘されてきたが、これにたいして、分子遺伝学の最近の進歩から期待できる救済策がときどき言われている。この幻想は一部の生半可な学者のあいだに広まっているが、それは消し去らなければならない。
 たしかに若干の遺伝的欠陥を一時的によくすることはできるだろうが、これは単に「病気になった個人」に対してにすぎず、そのひとの子孫に対してまではできない。現代分子遺伝学は、遺伝的遺産に働きかけて新しい特徴を付け加えたり、「超人」を創造したりできる手段を決して与えてくれないばかりか、そのような希望が永遠に空しいことを教えてくれるのである。
 なぜなら遺伝情報の微視的スケールは、いまのところ、そしておそらくは永遠に、そのような操作を受け入れないからだ。SF的な幻想をしばらく措くとすれば、人類を「改良する」ただ一つの手段としては、熟慮したうえで厳格な淘汰を実行することがあるだけだろう。しかしだれが今日そのような手段を望むだろうか。

 先進的な社会においては、非淘汰という状態が支配的になっているが、これが危険を伴うものであることは確かである。ただし、その危険が重大なものとなるのは10ないし15世代、すなわち数世紀先の遠い先のことなのである(としておこう)。

p201-14

 現代社会は科学が発見してくれた富と力とを受け容れてきた。しかしこの社会は、科学がもたらしたもっとも奥深い伝言を受け容れなかった。それにはほとんど耳を貸しもしなかった。――その伝言とは、新しい、そして唯一の、真実の源泉を定義することであり、倫理の基礎の全面的再検討と生気論―物活説的伝統からの完全な絶縁を要求することであり、「旧約」を決定的に廃棄することである。しかし今もわれわれは、一方では科学のおかげで得た力で武装し、すべての富を享受しつつ、他方では、まさにこの科学によって根元を掘り崩された古い価値体系にのっとって生活を続け、子供たちにその体系を教えているのである。

 現代物理学に支えられた分子生物学によって、「旧約」の約束と誓いは反故にされた。いまヒトは、自分がかつてその中から偶然によって出現してきた「宇宙」という無関心な果てしない広がりの中で、ただ一人生きているのを知っている。彼の運命も彼の義務もどこにも書かれてはいない。彼は独力で知識・知性の王国か暗黒の旧約世界か、のいずれかを選ばなくてはならない。

  現代アメリカの精神性の欠如を嘆いたアラン・ブルームは本書の17年後に、以上の3行とほとんどまったく同じことを「自分たちが気にかけているものに宇宙による支えがない、という事実に直面することほど困難なことはない」と書いた(『アメリカンマインドの終焉』p308 1987年刊)(本ブログ2010年9月27日)。
 ぼくは7年前、読んで頭がジンとゆさぶられた日のことをはっきり憶えている。深夜を過ぎて、眠ろうとしているときに、「何ものにも支えられていないこと」を実感するのは、当時のフランスでもアメリカでも、現在の日本でも、耐えがたいものである。