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中根千恵 『タテ社会の人間関係』(講談社現代選書)2/2

 p77・100 持っている能力はみんな平等だと思っている

 伝統的に日本人は「働き者」とか「なまけ者」というように、個人の努力差には注目するが、「誰でもやればできるんだ」という能力平等感が非常に根強く存在している。
 社会というものは、なんらかの方法で人々が組織されなければならないわけで、平等主義の社会が発達させる組織は、個々人の能力自体とは直接関係のないことがらを採用の指標にする。すなわちそれは生年とか、入社年・学歴年数ということになる。実際、日本社会において学歴が大きく取りあげられたり、また、それへの反発が異常なまでに大きいということは、この根強い能力平等感に根ざしているといえよう。

 日本において、民主主義・社会主義がしばしば混乱を招く一つの原因は、(かつての)社会主義の国々においてさえ認められていた能力差を、日本では認めようとしない点にあるといえよう。
 日本人は、たとえ、貧乏人でも、成功しないものでも(同等の能力を持っているということを前提としているから)、そうでない者と同等に扱われる権利があると信じ込んでいる。だから、そういう悪い状態にあるものはたまたま運が悪くて、恵まれなかったのでそうであるのであって、決して自分の能力がないゆえではないと、自他ともに認めなければならないことになっている。 

 しかし、実際の社会生活では、そうした人々は損な立場に立たされている。ところが「貧乏人は麦を食え」と言ってはならない。そういうことを言うのは日本社会ではタブーである。日本には、なんとこうした口だけのエセ同情者が多いことか。とくに「進歩派」的言辞を弄する人々の大部分が、こうした種類の特権的ムード派であるところに、平等主義から派生するぬるま湯的道徳が見られる。

 

 p169・70 100パーセント人間的なつながりに安住したい

 中国人・西欧人のように複数の集団に日常的に出入りでき、友好関係を保ちうるということは、反面、どの集団にも自己の全霊は捧げないということである。ある機能を持った集団とはその機能の範囲内で親しく付き合い、その範囲外のことがらについては自分も足を踏み入れないし、集団側もそれを求めないということである。そしてその集団の参加者は全員がそういった「契約の精神」を当たり前のこととしているから、その集団は長期間にわたって存続できる。

 これに対して日本人の会社、学校の部活、村落、災害被災者といった集団は、参加者本人に集団との「人間的なつながり」を要求する。成員間の人と人との関係を何よりも優先する、あまりにも人間的な価値観を持つことを、陰に陽に求められる。こうした集団にあっては対人関係が自己を位置づける尺度となり、集団内での「道徳」を守ることが求められる。

 「みんながこういっているから」「他人がこうするから」ということによって、自己の考え・行動に方向づけが与えられ、また一方、「こうしたことはすべきではない」「そう考えるのはみんなに合わない」というような表現によって、他人の考えと行動を規制する。

 日本人の会社、学校の部活、村落、災害被災者といった集団が「社会の人々がそう考えている」と成員に言うことは、同調しなければあなたは集団の成員として認めないということである。すなわち道徳の社会的強制である。そしてこの道徳は、宗教の経典はおろか、教科書にさえ明文化されていない類いのものである。

 日本人の価値観や社会生活の根底には、よく言われるように「絶対」を設定する思考といったものが存在しないのは確かだろう。世界に影響を与える偉大な宗教家や哲学者が、堂々たる文明国で、しかも人口が一億を超えながら一人も出ていないのは、この社会構造と無関係ではなさそうである。