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養老孟司 『遺言』(新潮新書)2/2

 ヒトとハチは同じことをしていないか

 p126-7

 共有空間が成立するのはヒトの場合だけではない。アリ、ハチ、シロアリのような社会性昆虫も機能的な共有空間をつくる。ただしそれは概念的な共有空間ではないはずである。一定のやり方で次々に部分をつくって行ったら、いつの間にか全体ができあがってしまっている、というものだろう。スズメバチアシナガバチの巣の作り方が典型である。

 こういう空間は一定の手順をひたすら繰り返すことにより、いわばアルゴリズム的に成立する。ファーブルのように、こうしたいわば固定された機能を、かつては本能と呼んでいた。
 ヒトはコンピュータを作り出したが、それはあらためてヒトの「意識」にもあるアルゴリズム的なものの強さを思い起こさせる。無論やっているヒトに、そんなつもりはないだろう。彼らは本能よりはるかに高級なことをしていると考えているに違いない。
 でも、考えてみないといけない。コンピュータは固定した手続きだけで、延々と「高級な」なことを自動でやる。まもなくヒトは量子コンピュータというものを手に入れるらしいが、量子コンピュータの根本機能はいまのコンピュータとまったく違うものではない。計算速度が数ケタ上がるだけである。
 要するに量子コンピュータは、物理学と機械工学の学者が、「向上意識」という「本能」と境界領域がはっきりしないものに尻を叩かれて、計算の高速化に取り組んだ成果なのである。
 向上意識が本能よりも高級なのかどうかは、また別の問題である。一定の手順をひたすら繰り返すことにより、いわばアルゴリズム的に成立するのは、量子コンピュータスズメバチの巣もあまり変わりがない。スズメバチの巣はスズメバチにとっては快適空間であることは間違いなかろうが、量子コンピュータが作る居住空間が非常に快適なものかどうかは、私にはわからない。

 感覚を遮断することは「高級」な行為なのか

 p140-1

 都市で暮らすということは、身の回りに恒常的な環境をつくることである。マンションの中にいれば終日明るさは変化しない。風は吹かない。温度は同じである。都内の小学校の校庭はひたすら舗装される。子供に同じ平坦な、固い地面を与える。べつに、土からくる足の裏の感覚を無視することを教えているつもりはないのだろう。

 でも一歩引いて見てみればやっていることは明らかである。むき出しの自然から直接与えられる皮膚感覚を限定し、安全や便利や清潔といった「意味」を前面に出し、残ったあとのものを遮断してしまう。

 世界中で子供と若者は四六時中、スマホを見ている。スマホの中にあるのは情報である。情報とは、放置しておけばまったく変化しないものである。スマホの中にあるものは、見ている人の肉体のように諸行無常ではない。情報化社会は、もともとあった自然の世界に反抗して、諸行無常ではない世界を構築しつつある。子供が諸行無常を発見するのは、我々の世代よりだいぶ先のことである。

 コンピュータの世界はどこまでも発展する。そのうち自分で自分より優秀なコンピュータをつくるコンピュータが出てくる。そうなればだれも何も考える必要すらなくなる。そのとき、世界は永久に変わらないもので満ちている。千年前のあのデータ?、あれはそのまま残っていますよ。こんなに確実な、安心で安全な世界はないじゃないですか、という面白みのない世界である。