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ゾラ 『居酒屋』(新潮文庫)

 牧師、売春婦、洗濯女、豚肉屋、門番、小間使い、労働者・・・・・、パリの最下層の男たち女たちがひどい貧困と汚濁の中で、他人の幸福を妬み、不幸を哄笑し、安すぎる賃金を呪い、くず肉のスープを水増しして食べ、強い火酒で喉をただれさせ、夫は隣の娘を森の中に連れ出し、妻は牛乳配達の少年を寝床に引っ張り込み、そのあげく夫婦そろってアル中になって狂い死にする・・・・・、全巻700ページを平常心を持って読むぬくのはなかなか難しい。
 ゾラといえば自然主義の頭領みたいな大作家だが、日本の自然主義とは味の濃さがまるで違う。ゾラの書く「自然」は日本と違って「自分の個人的生活」ではない。フランス中、パリ中のあらゆる生活者類型を作中につくり出し、その人物をアラビアの細密画のように隅々のゴミクズにいたるまで描き出す。

 「あとがき」によれば、ゾラには――バルザックの「人間喜劇」の向こうを張って――「第二帝政下における一家族の自然的・社会的歴史」という副題を持つ<ルーゴン・マッカール叢書>がある。第1巻の『ルーゴン家の運命』から最終巻の『医師パスカル』まで全20巻、全登場人物は1200人に上るらしい。

 『居酒屋』はこの<ルーゴン・マッカール叢書>の第7巻。はじめはパリの夕刊紙<公共の富>に連載されたが、内容がブルジョワ読者とお上を刺激するところあまりに激しく、半分ほどで掲載は中止になった。が、さすがはフランス文学界、フローベールユイスマンスツルゲーネフマラルメなど超一流が寄稿している<文学共和国>という高踏派の雑誌が後半の連載を引き受け、半年かけて轟轟たる非難と称賛がなかばする中で完結した。当時としては異常なほどの売れ行きで、3年で20万部近かったという。

 非難と称賛の両方に答える形で、ゾラは当時の文芸批評家アルベール・ミヨーに次のような手紙を書いているということだ。
 「わたしは世間のでっち上げるどんなゾラ伝説にも反駁しません。わたしの名前が新聞に出るたびに、批評家が読者を喜ばそうとして捏造するわたしの伝説を見て、友人たちがどんなにゲラゲラ笑い転げていることか。世間がいうところのけだもの作家が、じつはどんなに誠実な市民であるにすぎないことか、ひたすらおのれの信ずるところを守って世間の片隅でつつましやかに生きる研究の徒であるにすぎないことか!
 労働者階級を描いたわたしの絵は、ことさらの陰影もボカシもつけずに、思ったとおりにわたしが描いたものです。わたしは上層部の傷口を裸にしました。下層部の傷口を隠すこともしないでしょう。わたしの作品は、党派的なものでもなければ、プロパガンダでもない。そこから教訓を引き出す仕事は道学者先生にお任せしたいと思います・・・。

 ときは19世紀後半、産業革命が完成し、その利益をさらに拡大すべくイギリスとフランスが全世界に帝国主義をのばしていった時代。国内の経済格差がひどくなる一方で、それを論じあうために文学の有効性が、今とは違って、大いに喧伝されていた時代である。