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村上春樹 『風の歌を聴け』(講談社文庫)

 村上春樹30歳のデビュー作。冒頭や後書きも含めて何度か、村上自身が「最も影響を受けた作家」としてデレク・ハートフィールドという架空の人間が登場する。登場のさせ方が巧妙なので、村上のことをよく知らない人は実在の作家だと思ってしまう。
 それはともかく、ハートフィールドの作品の一つに『火星の井戸』というのがあるそうだ。「レイ・ブラッドベリの出現を暗示するような短編で、ハートフィールドの作品群の中でも異色のものだ」とまことしやかに語られている。

 村上のおもな作品には必ずと言っていいほど深い井戸や地底世界をくぐり抜ける話が出てくる。最新作『騎士団長殺し』でも、内壁が陶器のように緻密にできていて一度落ちたら独力では決して脱出できない井戸が、物語が示すメタファーのキーイメージになっていた。そのいわば、特殊相対論的世界の四番目の次元として、あと三つの空間次元を自在に伸縮させる「時間」の井戸が、大家となった現在とほとんど同じ意味合いをもって、このデビュー作にすでに採用されている。

 p125-6

 これは火星の地表に無数に掘られた底なしの井戸に潜った青年の話である。井戸はおそらく何万年の昔に火星人によって掘られたものであるのは確かだったが、不思議なことにそれらは全部が全部、丁寧に水脈を外して掘られていた。いったい何のために彼らがそんなものを掘ったのかは誰にもわからなかった。実際のところ火星人はその井戸以外に何ひとつ残さなかった。文字も住居も食器も鉄も墓もロケットも街も自動販売機も、貝殻さえもなかった。井戸だけである。それを文明と呼ぶかどうかは地球人の学者の判断に苦しむところではあったが、確かにその井戸は実にうまく作られていたし、何万年もの歳月を経た後も煉瓦ひとつ崩れてはいなかった。

 もちろん何人かの冒険家や調査隊が井戸に潜った。ロープを携えたものたちはそのあまりの井戸の深さと横穴の長さゆえに引き返さねばならなかったし、ロープを持たぬものは誰ひとりとして戻らなかった。

 ある日、宇宙を彷徨う一人の青年が井戸に潜った。彼は宇宙の広大さに倦み、人知れぬ死をのぞんでいたのだ。下に降りるにつれ、井戸は少しずつ心地よく感じられるようになり、奇妙な力が優しく彼の体を包み始めた。・・・・・・井戸の底に降り、横穴をひたすらに歩き続けた。どれほどの時間歩いたかはわからなかった。時計が止まってしまっていたからだ。・・・・・・そしてある時、彼は突然日の光を感じた。彼は横穴で結ばれた別の井戸をよじ登り、再び地上に出た。

 地上は荒野だった。何かが違っていた。風の匂い、太陽・・・太陽は中空にありながら、まるで夕日のようにオレンジ色の巨大な塊りと化していた。

 「あと25万年で太陽は爆発するよ。パチン・・・OFFさ。25万年、大した時間じゃないがね。」風が彼に向かってそう囁いた。

 彼は聴いた。「太陽はどうしたんだ、一体?」

 「年老いたんだ、死にかけてる。私にも君にもどうしようもないさ。」

 「なぜ急に・・・?」

 「急にじゃないよ。君が井戸を抜ける間に約15億年という歳月がかかったんだよ。」