ウマイヤ朝ムスリムが紹介するまで、西ヨーロッパはアリストテレスを知らなかった
p77-9、86-9
西ヨーロッパがプラトンやアリストテレスを知ったのは12世紀のことであり、それもスペイン・ウマイヤ朝のイスラム教徒を介してのことだった。ウマイヤ朝の首都スペインのコルドバは当時ヨーロッパ一の大都会であり、道路は舗装され、夜は街灯がともっていたという。パリが初めて舗装されたのは1184年のことで、それもルーヴル宮の前だけだった。
ギリシア・ローマの古典文化がイスラム文化を通して西ヨーロッパに紹介されたということは、西ヨーロッパにとり、地中海の古典文化はイスラム文化と同じく異国の先進文化だったことを物語っている。そしてまた異国の先進文化であったがゆえに、西ヨーロッパは過去にコンプレックスをいだいた。それはちょうど明治以降の日本において、つねに欧米を基準とし、欧米先進文化を引合いに出すことによって、自らの学問・文化の権威づけが行われてきたのとよく似ている。17世紀フランス文人の間で戦われた「古代人・近代人優劣論争」は、この意味でまことに興味深い。
西ヨーロッパが古典古代へのコンプレックスから完全に解放されたのは、じつに第二次大戦後のことだった。それは、西ヨーロッパ諸国の経済復興と発展、欧州共同体の発足と展開、そこでの相互協力による高度の産業化と一体の過程が、歴史的・文化的個体としての自分たち<西ヨーロッパ>を、ギリシア・スペインなど地中海世界との対比において、初めて自覚させたものと言えよう。
今日、西ヨーロッパ諸国の教育機関において、ラテン語学習が義務的科目から外され、また西ヨーロッパ世界の成立を11、12世紀に求めるようになったのは、高度の産業化によって西ヨーロッパがはじめて自己を主張する自信、地中海世界との異質性に対する明確な意識を持つようになったからであった。そして「中世」ということば自体が、今日すでに特定の時代概念ではなくなりつつあり、たんなる便宜上の日常語として使われるにすぎなくなった。
フランスの近代国民国家はイギリスへの恐怖心が生んだものだった
p109-10
19世紀の国民国家はそれ自体が虚構であり、擬制であった。地方政治や官僚制度など国家組織の基本が未整備、不整合、不安定であり、革命や暴動といった動乱の可能性が常に孕まれていた。支配する側にもされる側にも、自己を維持しとおすために英雄とか、強烈な人格とかを待望せざるをえない状況が日常的に存在していた。
なぜ近代ヨーロッパの支配者とブルジョアジーは、無理をしてでも、それ自体が擬制である政治体を作り出さねばならなかったのか。その最大の原因は近代イギリスの存在そのものであり、大陸側の市民はつねにイギリスに存在に心理的圧迫を受けていた。
イギリスは機械制生産をなしとげる産業革命のはるか以前から、ナショナルな規模で商品生産を展開できた唯一の国家である。14世紀後半以降、国際的花形商品として大規模に生産されるにいたった良質の毛織物がイギリス最大の武器であった。
このイギリスとドーバー海峡を挟んで相対するフランス・ブルジョアジーは、14-15世紀の100年戦争以来異常な勢いで発展するイギリスに緊張感を抱き始めていたが、くだって18世紀にイギリスが産業革命を成功させるにおよんで、緊張感と恐怖は極点に達した。
その結果、合理的思考の持つ現実変換能力がいやがうえにも高く評価されて、啓蒙思潮が生み出され、絶対王政の打倒と国民国家の樹立が叫ばれたのだが、それはひとえに、この「非常識な」イギリスに対する、フランス・ブルジョアジーの自己防衛反応の所産であった。
全国的な飢饉が自作農を一斉蜂起させ、フランス革命を全国に波及させた
p185-6
ところで、フランス革命はなぜ起こったのか。
ルイ16世の無能・無気力とマリー・アントワネットの奢侈にどれほど国民が憤慨し、国民国家樹立の必要性や人権思想の理念が説かれ、それによってパリだけは動いたとしても、コミュニケーション手段の劣悪な当時では、とても全国一斉の人民蜂起というわけにはいかなかったろう。市民社会理念や人権思想の確立は、フランス革命の評価ではありえても、必ずしも原因たりえない。
じつは革命のはじまる前年、フランスはたいへんな凶作であった。そして翌年の春からは穀物が深刻に不足し、価格が高騰し、飢饉がおとずれた。全国の農村は、「強盗団」が穀物を奪いに来るのではないかとの思いからパニックに陥った。
こうしてすべての農村がいっせいに武装をはじめ、穀物を取られる恐怖に駆られて領主への年貢支払いを拒否しただけでなく、領主館を襲って年貢のもとである証書を焼き捨てた。凶作が全国の農民に等しく自衛・土地防衛の行動を起こさせ、結果として領主権を攻撃させたことこそ、フランス革命を準備し、成功に導いた最大の原因である。