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木村尚三郎  『西欧文明の原像』(講談社学術文庫)3/3

 自分以外のすべてに対する不信感こそ、西欧の力の源泉

 P251-258
 権力を掌握する者は悪いことをする、彼らを信じきることは破滅を意味する。人はそれぞれ自分で自分の身体・生命・財産を守らなければならない、ーーこれが16・17世紀の宗教戦争期以来のヨーロッパ人の生活信条であり、日常的な生活感覚だった。髪の色、皮膚の色、目の色、ことばが違うのであれば、こころの通い合う道理はなく、人間が互いにそうであれば、権力をとれば当然悪いことをするであろう、――この、自分以外のすべてに対する不信感と、争いと傷付けあいから生まれる罪の意識が極度に大きくなったことが、人間を超越した唯一神・キリストに対するひたすらな信仰を一般化したのだった。このうちの宗教改革期の新教がアメリカ新大陸にそのまま移住して現在の福音派の大隆盛に繋がっている。

 日本人の「家の子」意識から世界に誇るべき何が生まれる?

 P372-5
 ところでこの冷たく突き放した自己観察・自己評価の神経に、日本人はどれだけ耐えられるか。わたしたちは自身による客観化どころか、他人による冷徹な客観化さえ好まない。
 著名な外国人が来日すれば必ず日本についての感想を求めるが、そのとき私たちは必ず良い採点を期待する。どうかして正直な採点でもされると、意気消沈してしまうか、国際儀礼もわきまえない失礼な奴と憤慨する。

 自ら主体的に戦うことなく「いい子」でいたい、むつみ合う「和」の関係のなかに自らを安定的に位置付けたい、そしてこの「和の関係」を安定的に保つために、強制力を伴う「権力」「権力者」でなく、人を心服せしめる「権威」「権威者」を「上」に仰ぎたい。さらに、働くことは厭わないが、自分だけで働くのではなくて、ほかの人と一緒に、同じ程度に、同じ仕方で働き、また休むのもほかの人と一緒に、同じ程度に、同じ仕方で休みたい、・・・となればこれは、大地に一族郎党がいっせいに労働力を投下することによって初めて大地から豊かな報酬を期待できた1000年前以来の「家の子」の生活感覚にほかならない。江戸時代の家制度ないし旧民法下の家はもはや遠い過去のものとなってしまったはずであるが、「家の子」意識は現在でも日本人の生活感覚、社会的倫理規範の中心を貫いている。

 土地に縛り付けられるという農奴の不自由性は、近代市民の自由と対比して高校世界史の教科書でとっくに履修済みのはずである。さまざまの異なった皮膚や言語の人々と緊張のうちに共存し合うことによって、新しい生活領域と新しい自己を作り出していくこそが、社会の近代化を推し進める原動力のはずであった。とすれば、つねに心を「許し合い」、慰め合う生活環境に安住して、つねに「うち」と「そと」を区別し、不自由な自分を見つめない生活態度は、ヨーロッパ中世の農奴と一体どこが違うのだろうか。

 他人の不幸がみずからの幸せという倒錯した残酷な心理は、みずから積極的に運命を切り開きえない植物的受動人のそれであり、女性的日本人の大半が内心ひそかに抱いている悪質な感情である。これが根強く残っているとき、自分自身は人並み以下に落ちたくないという、猛烈な差別反対、能力主義反対の態度を生む。そして有能な人材とみればよってたかって凡俗のレベルまで引きずりおろそうとする。この心理がわが国には大きな社会的同調圧力として作用しており、結果的に、世界に誇るべき普遍的かつ個性的な文化価値が生じがたいことになっている。