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ユヴァル・ノア・ハラリ 『サピエンス全史』(河出書房新社)4/7

 上巻 第6章 神話による社会の拡大

 p136-42

 サピエンスは、ネアンデルタール人と近縁のホモ属が、
 ただ無目的に進化しただけのもの

 紀元前1776年、バビロニアの王ハンムラビは当時の正義と公正のあり方を示したハンムラビ法典を、楔形文字を石柱に刻んで残した。この法典は家族構成員の中にも厳密なヒエラルキーを定めている。それによれば、子供は独立した人間ではなく、親の財産だった。したがって、高位の男性が別の高位の男性の娘を殺したら、財産を奪った罰として殺害者の財産つまり娘が殺される。
 殺人者は無傷のまま、無実の娘が殺されるというのは、私たちには奇妙に感じられるかもしれないが、バビロニア人たちにはこれは完璧に公正に思えた。法典が公正だったからこそ帝国の100万の臣民は効果的に協力して敵から国を守り、領土の富と自分たちの安全を確保することができた。

 ハンムラビの死の3500年後、北アメリカにあった13のイギリスの植民地が、イギリス王に不当な扱いを受けていると感じた。彼らの代表が1776年フィラデルフィアに集まり、7月4日これらの植民地の住民はもはやイギリス国王の臣民ではないと宣言した。彼らの独立宣言もまたハンムラビのものと同様に、普遍的で永遠の正義の原理をうたった。それらの原理はハンムラビのものと同様、神の力が発端となっているとした。ただしアメリカの神によって定められたもっとも重要な原理は、バビロンの神々が原理とはいくぶん異なっていた。アメリカ合衆国の独立宣言にはこうある。

「我々は以下の事実を自明なものと見なす。すなわち万人は平等に造られており、奪うことのできない特定の権利を造物主によって与えられており、その権利には生命、自由、幸福の追求が含まれる。」

 これら二つの文書は私たちに明らかな矛盾を突きつける。アメリカ人によればすべての人は平等なのに対して、バビロニア人によれば人々は明らかに平等ではない。アメリカ人もバビロニア人も間違っているのは相手だというだろう。

 じつは両者とも間違っている。普遍的で永遠の正義が存在するのは、彼らの共同体を構成する想像豊かなサピエンスの神話の中だけなのだ。これらの原理になんら客観的な正当性はない。

 生物学という科学によれば、人々は「造られた」わけではない。人々はただ行きあたりばったりに「進化した」のだ。その進化の過程には何の目的もなかった。その行きあたりばったりの結果、200万年前に直立ホモ属がうまれ、その一部から、20万年前のネアンデルタール人や7万年前のサピエンスが分化し、3~5万年前にそのサピエンスの脳内配線が突然変異して、今の私たちに近い言語を話すようになった。

 ヒトは間違っても平等になるようには進化しなかった。進化は平等ではなく差異に基づいている。誰もがいくぶん異なる遺伝子コードを持っており、誕生の瞬間から異なる環境にさらされている。その結果、異なる生存の仕方をするかもしれない、異なる特性が発達する。だから「造物主によって与えられる」はたんに「生まれる」とすべきだ。

 また生物学の語彙には「権利」などというものもない。生物にあるのは器官や能力や特徴だけだ。鳥は飛ぶ権利があるからではなく、翼があるから飛ぶ。そしてこれらの器官や能力や特徴が「奪うことのできない」と言うのも正しくない。ダチョウは鳥だが、飛ぶ能力を失った。したがって、「奪うことのできない権利」は「変わりやすい特徴」とするべきだ。