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ロバート・ゴダード 『千尋の闇』(創元社推理文庫)

 2週間前の本ブログでぼくは本作はすでに紹介済みだとしていた。ところがこれは勘違いだった。

 本作はイギリス中上流階級の3世代にわたる陰謀と裏切りの複雑きわまりないミステリー。20世紀初頭に南アフリカで起きた重婚詐欺が数年のちの内務大臣(A)の更迭につながり、馘首された内務大臣はポルトガル領マデイラに隠棲を余儀なくされてその地で回想録を書く。
 千尋の闇の底を記したその回想録には、首相アスキスを追い落とそうとするロイド・ジョージや、事件と微妙な距離をおこうとする曲者のウィンストン・チャーチルが実名で登場して、いかにも英国政治家らしい含みたっぷりのせりふを吐く。しかもこの政治劇には当時の急進的婦人参政権運動の女たちが一枚かんでいる。被害者意識を先鋭化させたこの女たちが権力志向のロイド・ジョージと策謀をめぐらせて内務大臣を奈落の底につき落とす場面は、日本の右翼政治家どもに見習ってほしいほどの天晴れさだ。

 重婚詐欺からはじまった陰謀と裏切りは内務大臣の墜落だけでは終わらない。内務大臣自身、自分の失脚の理由が分からなかったのだが、やがてそれは作中で「そういえばあの男は・・・」という伏線が張られていた男に焦点が絞られていく。この男(B)は、もとは婦人参政権運動家であったこの小説のヒロインを手に入れ、参政権運動と密約していたロイド・ジョージの知遇も得て、兵器商人として叙爵までされるのだが、その男が内務大臣の重婚を「証明」する書類を偽造していたのだ。

 この偽造された結婚証明書を落魄の内務大臣に見せた人物(C)こそ、小説の中で最も「悪」の影の濃い人間だった。しかし彼の「悪」の影がいかに濃いものであろうと、その影は南アフリカボーア戦争でイギリスがオランダ人社会に対して行った残虐行為の反映である。(B)はボーア戦争のどさくさに紛れ、友人(A)の名をかたってオランダ人の女に結婚詐欺を働き、三日後にはその女性を捨てたのだった。女性は妊娠してしまっていたが父親が逃げてしまったから、子供は私生児として生まれるほかはなかった。「悪」の影の濃い人間に成長するのは仕方なかった。

 因果が巡りめぐって、(C)は(B)が偽造した(A)の結婚証明書を手に入れる。(A)は(B)を追い詰め、(B)もかつての(A)同様すべてをなくす。イギリス人にひどいことをされて生まれた私生児(C)の復讐はこうして完成する、のだが・・・。

 だが、以上はこの小説の複雑なプロットの何分の一かを書いただけにすぎない。上のことは小説の語り手「わたし」の祖父母時代の話であって、「わたし」の現実の身のまわりでも祖父母時代に輪をかけたようなことが次々と進行して読者をハラハラさせる。 

 『千尋の闇』は、『リオノーラの肖像』をヒットさせたロバート・ゴダードの作家第一作だということだが、ゴダードに詳しい京大教授・若島正氏が解説に書いているように、「過去の探索を主軸にする複雑きわまりないプロットを読者に提供するのに、ゴダードはまことに達者なストーリーテリングの才能を発揮している。」日本のミステリー小説にこのようなスケールの作品がなぜ出ないのか、「想像力」に関する国民性に彼我の差を思ってしまう。ことは文学に限らない。