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杉浦明平 『小説渡辺崋山』(朝日新聞社)

 私たちが「渡辺崋山」に対して持っている高校生の受験日本史的な知識はどのあたりが平均点だろうか。江戸後期の武士であり有名な画家だったが、晩年は高野長英らとともにヨーロッパ列強との融和・通商の必要を説いた。しかしその開明性が幕府保守派の怒りに触れ、水野越前守―鳥居耀蔵らのラインによって蛮社の獄につながれ悲惨な最期を遂げた・・・。

 この受験日本史的な知識では、なぜ長英と崋山らが開国の必要を説いたのか、水野―鳥居らはなぜそこまで激怒したのかが分からない。崋山らは御時勢に逆らってひどい罰を受けたわけだが、ではいったい彼らは生きた御時勢とはどういうものであったのか、時の将軍・老中・大名はどんなことを日常考え、農民・庶民はどんなものを日ごろ食べ、しゃべり、大商人と上層武家のあいだではどんな駆け引きが毎日あったのか・・・。

 文庫版では8巻本になるというこの長編『小説渡辺崋山』では、文化・文政・天保時代の日本のほとんどすべての階層の日常生活が、丁寧に、肩をいからせない文体でゆっくりと語られる。死んだ母親の頬肉を食うという飢饉のときの農民の悲惨さ、一幅の山水画に千両の値をつける谷文晁の傲り、飢饉のさなか一日千斤の砂糖を消費するという江戸城御殿女中の退廃、崋山がいったん訴追されると、昨日まで稀代の名画伯とたたえたその墨も乾かないうちに「あの人は過激派だと思っていたと」囁き合う尻の穴の小さい画壇仲間たち。

 渡辺崋山は愛知県の南部、わずか12000石の小藩・田原藩の家老を務めた、きわめて清廉、実直な男だったとされる。そのことは残された親しかった弟子・椿椿山作の肖像画からも彷彿されるが、一度かれは家老として、藩内諸役人の勤務モラルのあまりの低さを正すべく、俸給制度を万古不易と思われた禄高給から能力給に大改革しようとしている。ただ、藩内守旧派の猛反対にあいながらも一応殿さまのOKもとったのだが、ときは天保大飢饉の真っただ中。優秀な人間に能力分を上乗せしようとしても、それではもともと現在の生活保護世帯レベルの者たちの給料を減らさなければならず、実行はとうてい不可能だった。

 なお崋山は個人的には人並みかあるいはそれ以上か、女性のことを大好きだったらしい。が、それは当時の風俗一般であり、別に目くじらを立てることではない。

 それはそれとして、ここに登場する人物の多士済々なこと。有名どころだけをあげても、徳川家斉、水野出羽守、水野越前守、林大学頭述斎、述斎の4男鳥居耀蔵、述斎の弟子松崎慊堂、水戸斉昭、頼山陽緒方洪庵、谷文晁、滝沢馬琴、高田屋嘉平、江川太郎左衛門高島秋帆間宮林蔵伊能忠敬国定忠治二宮金次郎、大倉永常、太田南畝、十返舎一九大塩平八郎・・・・、きりがない。これらの面々がこの小説の中に、平凡な言い方だが、私たちが直接付き合った人のように動いている。ひとが生き生きと動いているから、170年も前の時代が現場感をもっている。
 その170年前の時代、攘夷派たちはこんなことを考えていた。水戸藩士であるのに崋山に共鳴するところのある立原杏所は言う。ともかく水戸は殿様も家中のものも西洋嫌いに生まれついているのですよ。オランダ人は流派はちがうけれども、邪宗門の同類で牛豚の肉を食らい、妾を禁じ、横文字を使用することでは共通だ。畜生の肉を食らうやつらは、血や肉が、ひいては精神も同じになる・・・。」崋山はくすくす笑った。「ぼくは牛肉を食べるから、畜生なみかな。慊堂先生も述斎先生と同じ儒学者なのに、牛肉をお好きだからやっぱり大学頭様とは合わないのでしょうね。

 杏所またいわく、それに、斉昭の殿さまによれば妾を禁じるとは子孫を残すべき人間の道に反する畜生道。横文字を書くとはまぎれもなく心がまっすぐでない証拠だそうです。オランダを追っ払って近年流行しておる蘭学を禁制にせにゃいかん。諺にもわが仏こそ尊しと言うように、だれでもその先師を尊いと思うのは自然の勢いである。蘭学者は今に邪宗門までもよいと言い出すのではないかと心配しておる。オランダ人を追放し、蘭学を禁制しようとも、この神国の人が、禽獣同様の西洋人に及ばぬはずがない。最近ではエレキテルとかマグネットとか役にも立たぬ枝葉末節の遊びごとで人民をたぶらかすだけで、百害あって一利なしじゃ」だそうです。(下巻p260)

 一方そのころ、林大学頭述斎の邸宅では述斎と、目付に大出世した4男鳥居耀蔵が密談している。「崋山はなかなか深いたくらみをしていますぞ」と鳥居。「今度それがしが仰せつかった相州沿岸検分の副使・江川太郎左衛門が西洋かぶれなのにつけ込んで、オランダ式測量を採用させたそうです。それによってオランダの学問技術が日本在来のものよりはるかに優秀であることを見せびらかそうという腹です。いや、学問だけでなく、兵器や兵制まですっかり西洋式に変えてしまうのが最後の目標なのですぜ。田原藩下屋敷でひそかに西洋式大砲の試験をしたらしいと、われわれ監察方に情報が入っているくらいです。監察方としましては、かかる横議や人心の擾乱を放置するわけにはできませぬから、その黒幕の探索に取り掛かっています。いやすでにその者の線は浮かんできているのですがね。」(下巻p307)

 尻の穴の小さいのは画壇の仲間だけではなかった。「崋山の家には欧米諸国の新知識を求める旗本や諸藩の重役がよく顔を出して、いずれも崋山を先生と呼んでいたけれども、いったん崋山が訴追され、時の首相・水野越前守が捜査の総指揮ををとっていることが分かると、江川太郎左衛門ら数人を除いて、崋山助命にかかわる周旋依頼に対して彼らは迷惑千万という表情で、いかに訴えても取りあわなかった。牢内の崋山は、12年後に彼の肖像を描いた椿椿山からそういう報告を受けるまでもなく、公儀の役人がどんなに臆病であるか、いろんな交渉事を通じて心得ていた。あれほど賄賂に目のない連中なのに、容疑者の親類友人からは菓子折りひとつ受け取らないだろう。まして天下の罪人の救援に指一本貸すはずがないではないか」というわけである。(下巻p522)

 ・・・・その後、因果はめぐりめぐって、崋山没後100年、愛知県田原市には渡辺崋山神社が建立され、崋山顕彰会なるものがこしらえられたという。いやはや。