アクセス数:アクセスカウンター

養老孟司 『考えるヒト』(ちくま文庫)

 主著『唯脳論』の続編ともいえる難しい内容を持つ。養老さん自身が自分の一生のテーマであると言っている「意識」について、専門性と総合性をともに備えた、深くて広い思考の先端部分が示されている。 
 ただし、いつもの養老さんのように、この本でもアタマのスピードに文章がついて行けていないところが何カ所かあり、そこでは読者は数分立ち止まって「う~ん、ここは4行前のこのセンテンスを受けているのだろう」と決心してから前に進まないといけない。自己認識の欠如する人々の奇行を嗤った何冊かのベストセラーだけで養老さんを知る読者は、この本を投げ出すかもしれない。そのせいか、発売後2年の文庫本だがまだ第1刷という売れ行きだ。

 第2章 意識と科学 p42-8

 科学の世界で大変重要なことがある。それは、われわれの脳の典型的な働きである意識が、主観だということだ。主観とはつまり、客観性が欠けるということである。だから古典的な科学、19世紀~20世紀前半までの科学では、意識は自然科学の中に入れてもらえなかった。

 だから今でも心理学は文学部にある。意識という主観的な対象の研究は、文学など主観的なものを研究する文学部でおやりなさいというわけである。それは一面では正しいが、別な面からするとずいぶんおかしい。なぜなら、自然科学も科学者の意識を除いてしまったら、成り立たないからである。

 そのうち、面倒な感情や情緒はともかくとしても、論理の部分だけなら、脳の働きは科学になるのではないかというふうになってきた。(天気予報や将棋や囲碁の例でみられるように)そういう作業はコンピュータでもできることが分かってきた。逆に今では、コンピュータにできることはコンピュータにやらせながら、脳がどのように働いているかを(コンピュータと一緒に)考えることまで、できるようになってきた。「脳をつくる」ことがほんの少しずつできるようになってきたともいえる。

 以前に思われていたように、論理的作業は高級なものではない。機械でもできる。むしろ客観的でないといわれた主観の方が、解明が難しい現象になってきたのである。難しい問題が高級な問題なら、主観の方がずっと高級だろう。

 これまで文学や哲学の中では、脳と心の関係について、さまざまな疑問が出されてきた。脳の科学はそのすべてに答えることは当然できない。しかし従来の自然科学のように意識の問題を主観として排除することは、もっとできない。なぜなら科学を成り立たせているのは、われわれの意識にほかならないからである。だれも、意識のない人が、科学論文を書けるとは思わないはずである。それなら意識は科学の重大な前提であり、それを調べることは科学の作業にならざるをえない。