アクセス数:アクセスカウンター

H・グリーン 『手のことば』(みすず書房)

 この本を読むと、私たちが聾者の世界というものをほとんど想像できないままでいることがよく分かる。

 聾ということはただ耳が聞こえないということではない。耳が聞こえないということは言葉がない世界にいるということである。手話ができれば言葉があるではないかというのは健常者のの思い込みにすぎない。手話というのはある単語、状況、動作を含めておおざっぱに抽象化、図形化し、それに話し手の表情などを付け加えたものである。単語の細かな意味の違い、たとえば「なさけ」と「人情」、「けしき」と「光景」、「てざわり」と「風合い」などの違いを手話で解ってもらうのはとても難しい。人情、光景、風合いなどは単語の文字をそのまま覚えてもらうしかないが、その「覚える」過程で具体的な「人」と抽象的な「情」、具体的な「光」と抽象的な「景」、具体的な「風」と抽象的な「合」がどうして結びつくのかを手話で理解してもらうのはたいへんな忍耐と時間を必要とする。

 三重苦のヘレン・ケラーが「盲」であるのと「聾」であるのとどちらかを選べと言われたら、と問われて、即座に「盲」の方を選ぶと答えたという逸話があるらしいが、この本の訳された方も「訳出しながら、言葉のない世界がいかにわれわれの安易な想像を絶する性質のものかというのを痛感させられた」としみじみ述べられている。

 p189-90

 (両親が聾であるが自身は健常者である)マーガレットはボーイフレンドのウィリアムが手紙でいくら「愛している」と書いてくれても冷たいものを感じてしまうのだった。二日置いてまた読み返してもその感じは変わらなかった。そしてその原因が分かった。ウィリアムは聾ということをまったく理解していないのだ。人間の思想とかおよそあらゆる「考える」ことのにない手である<言葉>というものがない世界を知らないのだ。手で触れ、目で見えるもの以外の、思考を受け容れる手段を持たない人がいるということが分からないのだ。
 彼は聾とは単に音のない世界だと思っている。「言葉のない世界」だということを知らない。マーガレット自身は聞こえる人であり、話すこともできたし一般以上の知力のある人だったけれども、近しい大人が両親だけだった幼児のときには長い間言葉を持たなかった。だから社会に自由に生きていくうえでの想像力をまったく持つことができない時期があった。

 マーガレットは小学3年生のとき先生に言われたことを憶えている。
 「ここに“友好的”(フレンドリー)という語がありますね。あなたは『犬と猫は友好的をつくることができない』と書きましたね。そのような使い方はしないのよ」
 それから先生は“友”(フレンド)という語について、いっぱい説明を加えた。
 どうしてこんなにいろいろな言い方をする必要があるのだろう。“友情”(フレンドリシップ)、“友好的なこと”(フレンドリネス)、“友好的”(フレンドリー)、といったって、だいたい同じことではないか。なぜ区別する必要があるのかがマーガレットには想像できなかった。それを想像できないマーガレットは4年生に進級できなかった。当時の学校というのはそんな世界だった。