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木村敏 『異常の構造』(講談社現代新書)

「異常者」の目印は「常識」の欠落 

p93-5 

 ごくありふれた精神分裂病の患者では、「常識の欠落」は患者自身によって経験されるよりも、周囲の人物に奇異の念をいだかせるような「他覚的症状」としてあらわれてくる。
 小さい時から親に口答えひとつしない、すなおで「良い子」だった人が、ある時を境にしてしだいに反抗的になり、ささいなことで親に乱暴したり、家の中のものを破壊したり、突然家出をして遠方へ出かけたりする。これまで何でも打ち明けてくれていたのに、急に誰とも口を利かなくなり、ひとりで部屋に閉じこもって相手もいないのにひとりごとのようにつぶやきはじめ、時には唐突に笑い出したりする。態度が粗暴になり、生活が乱れ、学校の成績が急に低下する。家族が心配して医者に見せようとしても、本人はどこにも異常はないと言い張って、どうしても医者の所へ行こうとしない。
 ――だいたいの分裂病者は、このような経過をたどって精神科医のもとに連れてこられることになる。家庭により、患者の性格により、こまかな点では違いはあっても、大多数の分裂病者の「発病」の様相は意外なほど似かよっている。そして患者の「行動の異常」は「常識の欠落」という表現でおおむね言い表すことができる。

 ここで注目されるのは、精神分裂病者における行動の異常が、もっぱら対人関係の領域にのみ出現するということだ。かりに患者が一人で自室に閉じこもってひとりごとをつぶやいているというような場合でも、患者は決して一人でいるのではない。むしろ、周囲の人から見て患者一人しかいないような場所にすら対人関係が出現している。

 常識人の「合理性」の根拠は確かなものか

 p144-5

 精神病者に対する「人道的」処遇が声高に叫ばれるたびごとに、そこにはもう一つの、それとはまったく不調和な声が、つまり常識人が自らの心を痛めることなく、精神病者をできるかぎり排除し尽くそうという「持続低音」が、低く、しかし明瞭に聞き取れはしないだろうか。
 新聞の同一紙面に、精神病院内での非人道的な行為と、精神病者の「野放し」の危険性とが大見出しで書きたてられているのは、まことに象徴的なことである。「異常者」は危険な存在だからひとり残らず病院に収容すべきである、そして病院内では彼らに最大限の「人権」が与えられるべきである――この二つの主張の奇妙な対位法こそ、現代の合理化社会の体質をみごと象徴してはいないだろうか。

 私たち「正常者」の社会は、いったいいかなる論理と正当性でもって「異常者」を排除しているのか。この排除は、「異常者」が「正常者」の日常的な常識を構成する合理的から逸脱しているという理由にもとづいておこなわれている。
 とするならば上の問いはさらに次の二つの問いに分けられる。まず、合理性はいかなる論理でもって非合理を排除できるのか。つぎに、合理性の枠内にある「正常者」の社会は、どんな根拠によって非合理の「異常者」の存在を拒むことができるのか。

 p153-9

 私たちは、私たちを取り巻いている世界に立ち現われてくるいろいろな物体や音、匂いなどについて、それらの知覚対象が実在することを疑っていない。この思いは、そういった物体や音や匂いが実際に客観的に存在するからであって、私たち自身の勝手な空想的産物ではないと思っている。これが私たちの日常的・常識的な感じ方であり考え方である。

 世界の実在を素朴に信頼するという常識的日常性のこの錯覚は、ある幾何学図形の錯視などのようには容易に解消できない。この錯覚は、私たち自身の中に深く根を下ろしていて、私たち自身の「存在感」と根本的に結びついているような錯覚である。私たちは生きることを欲し、存在することを欲している。この錯覚はわたしたち自身の「存在への意志」、「正常への意志」なのだ。

 しかし、私たちがなんらかの理由で存在への意志を放棄したとき、あるいはもっと積極的に存在を拒もうとしたとき、あるいは私たちの生命力が深いところで頓挫して、生への意志が活動を停止したとき、常識的・合理的世界はたちまちその実在性と現実性を失って、たんなる感覚的所与のモザイクに変わってしまう。たとえば「正常者」にとっては単なる幻視や幻聴である現象も、「異常者」にとっては確かに見え、聴こえているものである。常識的・合理的世界の脆さ・危うさはこんな簡単な事実にも端的にあらわされているだろう。