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山本義隆 『近代日本一五〇年』(岩波新書)2/3

 第3章 帝国主義と科学

 初代文部大臣・森有礼はなかば以上本気で、日本語の廃止・英語の採用と
 米国子女との結婚による人種改良、を考えていた。

 p90-3

 黒船によって象徴された西欧文明の軍事的優越性は、同時に、西欧文明の知的優位性を押しつけるものだった。1885年に初代文部大臣に就任する森有礼は、明治の初め駐アメリカ公使であったときに、日本からの留学生に以下の訓辞を垂れている。

 「そもそも日本語にては文明開化を図ること能はず。よって余は日本語を廃止して英語を採用せんと欲す。・・・また日本を文明開化の域に進むるには、日本語の廃止のみにては十分ならず。まず日本人種を改良せざるをえざるなり」。ゆえに日本人は将来欧米人と雑婚の必要あり。よって君らは留学中、米国の娘と交際し、その女子と結婚して帰国すべし。」

 ハーバードで直接この訓辞を聞いた、のちの伊藤内閣の閣僚・金子堅太郎の晩年の回想録の一節だが、この手の回想録には誇張や潤色がつきものだとしても、まったくの作り話ではないだろう。こういう人物が文部大臣になったのかと思うと現在の私たちはあきれてしまうが、当時、欧米のことをいくらかでも知ることになった日本の知識人の多くは、ここまで極端ではないにせよ、多かれ少なかれ西洋文明にコンプレックスを抱いていた。

  清国と朝鮮に対しては上から目線で、
 文明東漸の世界風潮に際し、その独立を維持する道はなしと決めつけた。

 福沢諭吉も『文明論の概略』で「日本人の知恵と西洋人の知恵を比較すれば、文学、技術、商売、工業、最大のことより最小のことまで一として彼の右に出るものあらず」と繰り返している。(第6巻)

 しかし、アジアの諸国に先んじて独立の維持と曲りなりにもせよ近代化にある程度の目鼻がついた段階では、欧米に対する劣等感―「劣亜」の心情―が、近代化に立ち遅れた他のアジア諸国にたいする優越感―「蔑亜」の心情―に転化するのは容易な道であった。
 はやくも1876年に日本はペリーの黒船と同様の砲艦外交で、朝鮮に不平等条約を押しつけている。それはソウルに公使館を設置させ、釜山・仁川・元山を開港させて治外法権付の居留地を認めさせ、日本商品に対する関税の撤廃と日本通貨の使用を認めさせるという、きわめて一方的なもので、のちの朝鮮領有にいたる第一歩となった。

 ・・・こうしたなか、かつて日本の文明開化を熱く説いた福沢は1895年の『脱亜論』で「わが日本の国土はアジアの東辺境にありといえども、その国民の精神はすでにアジアの固陋を脱して、西洋の文明に移りたり」との現状認識を示し、自らを文明サイドに置いた。そのうえで「支那と朝鮮」は「古風旧慣に恋々する」ばかりと決めつけ、文字どおり上から目線で「支那・朝鮮の二国は、いまの文明東漸の風潮に際し、とてもその独立を維持する道はなし」と決めつけた。