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池澤夏樹 『花を運ぶ妹』(文春文庫)1/2

 秀作小説。『アトミックボックス』、『マシアス・ギリの失脚』、『スティル・ライフ』、『夏の朝の成層圏』、『真昼のプリニウス』、『静かな大地』、『すばらしい新世界』、『光の指で触れよ』、『氷山の南』』、『南の島のティオ』と、発表年に関係なくランダムに池澤夏樹を読んできたが、この『花を運ぶ妹』はもっともよくできた作品であると思う。池澤は正義がどこまで行われているかを常に問う倫理性の強い作家だが、本作はその倫理性と、読者を喜ばせるストーリーテリングの技術がとても高いところで結びついている。
 西暦2000年の作品。1984年の『夏の朝の成層圏』で作家になった人だからほぼ中期の傑作と言える。英語・仏語の翻訳も出ているようだ。

 物語の主人公は哲郎とカヲルという一組の兄妹。哲郎は天才的な絵画の才能に恵まれており、ブーゲンビリアの大きな鉢を運んでいる妹を油絵に描いて全国高校芸術祭の絵画部門で金賞を取り評判になった。後年になって哲郎は自作を眺めたとき、太陽の微粒子が鉢の中に咲いているようなブーゲンビリアを運ぶ妹のおずおずとした姿勢に、ゴーギャンの『ヤコブと天使の戦い』の前景に描かれた祈る女たちの緊張感を見て取った。それほどに会心の作品だった。本作のタイトルはこのエピソードからとったものだ。  

 その哲郎がインドネシアのバリ島で写生旅行をしているとき、ふとしたことからインゲボルグというドイツ人の女性に出合い、ヘロインをやればもっともっと芸術の高みに行けると誘われてしまう。そしてとうとう口説き落され、中毒になり、街頭の売人からヘロインを買うようになるのだが、そのころバリ島警察で展開されていた麻薬撲滅キャンペーンの網におかしな形で引っ掛かってしまい、逮捕され収監されてしまう。
 哲郎は2グラムのヘロインを売人から買い、ホテルの部屋で吸っただけなのだが、誰がどう仕組んだのか、警察は哲郎がタイから200gものヘロインをバリに持ち込んだという重罪の嫌疑をかける。起訴され有罪になれば、よくて終身刑、成り行き次第では死刑の可能性さえある。

 哲郎が逮捕されたとき、妹のカヲルはバリの別の場所にいて、知人から哲夫のことを知らされて仰天する。あの「芸術家の兄」のことだから、何かの拍子でヘロインを吸うくらいのことはあるかもしれない。しかし200gをタイから持ち込むなどはありえない・・・。
 カヲルはいまはバリに遊びに来ているが、ふだんはパリのソルボンヌに在籍しながら、モンマルトルの旅行代理店で学生やバックパッカー相手に格安航空券などを手配して生活費を稼いでいる。警察相手に正面からは戦えないが、東京やパリに多くの知人・友人・仕事仲間がいる。それを生かして、苦労しながらジャカルタ政界とつながる日本人フィクサーやバリの有力弁護士にわたりをつけ、地元警察の弱点を探り、ありもしない「ヘロイン200g持ち込み」がどのようにしてでっちあげられたのかを明らかにしようと奮闘する。ここのあたりのカヲルの活躍、哲郎の絶望と憂愁など、池澤の語りにはどんな読者でも引き込まずにはいられないだろう。物語の終わり近く、ハッピーエンドがわかって読者はようやく安心する。