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池澤夏樹 『やがてヒトに与えられた時が満ちて…』(角川文庫)2/2

 『やがてヒトに与えられた時が満ちて…』

 出色の思弁的SFである。若い時から終末論に興味を惹かれてきたという池澤の、大学で専攻した物理学の知識が、彼本来の透きとおったロマンティシズムと論理的で平明な文章力の中に活かされている。表題はヒトという動物種に終末のときが迫りきたとき、残った人々は何をしようとするかという意味をのべている。

 p99・p123

 数世代前まで、人間は地球に住んでいた。あるとき、グレートハザードと呼ばれる大きな災厄のために地球は人間が住むに適さないところになった。そこで、重力などが安定した地球と月のラグランジュ平衡点にたまたま建設中だった超大型人工衛星に都市がつくられ、30万人の人間が移住した。

 グレートハザードの原因はやはり地球の環境変化であるといわれた。地球全体が人間が住む環境として機能する意思を失ってきた。それが何か見えない機構を通じて人の出生率を下げていた。産みたくても産めないものの率がどんどん高まっていった。種全体の生命力の喪失などという言葉が飛び交ったが、病原菌やウィルスは発見されなかった。

 がしかし、遺伝的な傾向は確かに見られたので、世界中の公的機関は一人でも子を産んだ夫婦を選び出し、その人々と不妊の人々の隔離を始めた。世界の何カ所かに子供のいる夫婦専用の生活エリアを作り、子供を産めない人々とは接触させなかった。絶滅の危機を感じていた世界中が彼らを応援した。超大型人工衛星の都市に移住した30万人はすべて彼ら子供を持つ人々だった。

 何世代かを経るうちに地球からの連絡は途絶えた。地表のヒトはどうなったのか、知る手段はなかった。地球に降りてみるという考えは誰の頭にも浮かばなかった。

 このラグランジュ人工都市の人口は厳密に30万人前後に維持されている。それに合わせて食料生産も気候も交通手段も安定的に維持されている。その維持を一手に担うものを池澤はCPUと名付けている。いかにも1996年の発刊らしいネーミングだが、このCPUはジョージ・オーウェル1984年』に登場する「ビッグ・ブラザー」を彷彿とさせる。「ビッグ・ブラザー」ほど悪玉ではないが。主人公・私とCPUが会話するシーンがある。

 「ここの主人は人間なのか、CPUネットワークなのか」

 「その問いは意味をなさない。お望みならば、われわれCPUネットワークは人間を超える能力を以て人間に奉仕していると答えてあげてもいいが、それではあなたは満足しないだろう」

「CPUネットワークを構築し、ソフトウェアを設計したのは人間であった。あなたの問いはわれわれを抜けてそのまま設計者たちに向けられることになるが、彼らはもういない」

 主人公・私は30万の全人口の中でほとんどただ一人、人工都市のすべてを司るCPUに対し、その存在の正当性と意義を尋ねる市民だった。 
 そんな私は、CPUと討論してしばらく経ったある日、自分の体の異常に気付く。手足の指などからはじまって、体の各部がしだいにメッキしたみたいになり、徐々に組織全体が金属に置き換わっていく金属病に冒されてしまう。過去7人の罹患例がある珍しい病気だとCPUは言う。

 生体組織はすぐに老化し死ぬが、金属に置き換わった組織は何百年も何千年も死なない。そしてある日目覚めたとき私は自分が亜光速でとぶ宇宙船に乗って星間飛行に送り出されてしまったたことを知る。