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村上春樹 『遠い太鼓』(講談社文庫)

 村上春樹は40歳前、初期のベストセラー『ノルウェイの森』と『ダンス・ダンス・ダンス』をヨーロッパで書いたらしい。二つの作品はおもにイタリアで書いたということだが、原稿を書きながらときどき近隣の国や地方を旅したり、執筆用に借りた家の付近で泳いだり散歩したり現地の人と親しくなったり、市役所の窓口やホテルとちょっと揉めてみたりといった、誰にでもあるようなことを村上もしている。この『遠い太鼓』は旅行記とも言えなくはないが、そういった身辺雑事をまとめた本である。
 
必ずしも時系列順にもルート順にもなっていないし、名所や見どころをまとめた旅行案内文章はほとんどないが、頻出する土地のじいさん、おかみさんたちとのやり取りには村上流のユーモアが随所に出ていてとてもおもしろい。暖かい縁側で寝転んで読むにはいい本だ。 
 以下に各国別のヨーロッパ人の寸評と、わが国の疑似階級社会(ヤッピー)化論(というほどでもないが)を抜き書きしてみる。

 p276-9

 どういうわけかイタリア人のバックパッカーというのにとんとお目にかからない。ポーランド人のバックパッカーとも会ったし、韓国人とも、タンザニア人のバックパッカーとだって会った。でもイタリア人のそれには出会ったことがない のだ。
 たぶん僕は運が悪かったのだと思う。これまで彼らと遭遇しなかったのはおそらく偶然のなせる業なのだろう。
 でも、そういう偶然をたとえ充分に計算に入れても、イタリア人がそれほどバックパック旅行を好んでいないのは真実だと思う。ひとりで重いリュックを担いでとぼとぼ歩き、あるときにはパンとチーズとリンゴだけで一週間過ごすという旅行は、イタリア人よりは北ヨーロッパの人々にはるかに向いているように僕には思える。

 北方ヨーロッパ人――彼らは実に困難と貧困と苦行を求めて旅行を続ける。嘘じゃない。彼らはほんとうにそういうものを求めているのだ。まるで中世の諸国行脚みたいに。彼らはそういう旅を経験することが人格の形成にとって極めて有効・有益であると信じているように見える。古代・中世の、周辺の土地ではとても貧しい作物しか収穫できなかった禁欲的ヴァイキングの末裔なのだ。
 彼らはほとんど金を使わない。彼らはほとんどレストランに入らない。彼らは200円安いホテルを探して2時間街を歩き回る。彼らの誇りは経済効率にある。どれだけ安い費用でどれだけ遠くまで行ったか。彼らはそのような苦行の旅を終えて故国に帰り、大学を出て、社会に出る。そして――たとえば――株式仲買人として成功する。結婚し、子供も成長する。ガレージにはメルセデスボルボステーションワゴンが入っている。
 そういうのが彼らの目標とする人生であり、生き方のスタイルである。

 でもイタリア人はそうではない。そういうのは彼らの生き方のスタイルではない。彼らは午後のパスタやら、ミッソーニのシャツやら、黒いタイト・スカートをはいて階段を上って行く女の子やら、新型のアルファ・ロメオのギア・シフトのことやらを考えるのに忙しくて、いちいち苦行なんてやっている暇がないのだ。冗談抜きで本当にそうなのだ。

 p560-1

 僕はイタリアから帰ってきて、それからすぐにアメリカに発ち、1か月半ほど滞在した。ニューヨークのレストランで、あるアメリカの作家に会って、話をした。彼は日本に行って戻ってきたばかりだった。
 「おい、日本人ってみんなヤッピーなのか?」と彼は言った。僕には彼の言う意味がどうもよく分からなかった。いったい日本の社会のどこがヤッピー社会なのだろうかと彼に訊いてみた。彼はこういった。「JALのシートはエコノミーよりビジネスクラスの方が多いんだよ。そんな飛行機があっていいのかい。馬鹿げてるよ。実というものがないじゃないか」彼はある意味でモラリスティックに過ぎるのではないかと、僕は思っている。ただ、一理はある。

 金箔をほどこされたこのいびつな疑似階級社会をヤッピー社会というなら、日本の社会は確かにそういう方向に向かっているかもしれない。ある雑誌の中で一人の女の子がこう言っていた。「わたしはBMWなら7シリーズに乗っている男の子としたデートしたくない、5シリーズならまだしも3シリーズなんて貧乏で嫌だ。」
 僕ははじめのうち、こういうのは気の利いた冗談なのだと思っていた。あるいは何か二重の意味を秘めた複雑なメッセージなのだろうと。でもそれは冗談でもメッセージでもなかった。正真正銘の本音だったのだ。彼女たちは真剣に本気でそう言っているのだ。BMWの7シリーズなのか5シリーズなのか3シリーズなのかは彼女たちの存在位置を明確にピンポイントするための重要な共同幻想なのだ。