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村上春樹 『1973年のピンボール』(講談社文庫)

 連合赤軍が警察機動隊に踏みつぶされた浅間山荘事件は1972年のことだった。その前から学生の全共闘各派は内ゲバを繰り返して衰退し、一般市民の共感を完全に失っていた。そして日本封建制の優性遺伝子を持つ彼らは、戦中の学徒動員を真似て雨中の大行進を東京都内で敢行し、全国民の失笑を買っていた。
 この時代に学生だった人びとは、全身ずぶぬれになりながら分列行進をするという愚かすぎる同輩たちを見て天を仰いだだろう。戦後たった30年でよりにもよって旧日本軍のマネをしでかす自分たち大学生とはいったい何者なのか、と。そのような、どうにも動きようのない時代状況が本書の全編にあふれている。文章はいつものように平明、比喩もあいかわらず巧みで読みやすい。

p95-6

「ねえ、猫はどんなことを考える?」

「いろいろさ。あたしやあんたと同じだよ」

「うちの猫、片手なんだよ」

「片手?」

「ビッコなんだよ。この前ね、猫が血まみれになって家に戻ってきたんだ。手のひらがマーマレードみたいにぐしゃぐしゃに潰れてたよ。誰かが万力にかけたんじゃないかな。車のタイヤに挽かれたくらいじゃ、ああはならない」

「いったい誰が猫の手なんて・・・」

「そうさ、猫の手をつぶす必要なんてどこにもない。とてもおとなしい猫だし。誰が得するわけでもない。無意味だしひどすぎる。でもね、世の中にはそんな風な理由もない悪意が山とあるんだよ。あたしにも理解できない。あんたにも理解できない。でもそれは確かに存在しているんだ。取り囲まれていると言っていいかもしれないね。」

 1973年、ぼくが25歳のとき、コンピュータはまだ一部の人たちのツールだった。だから学生が就職した企業でやる仕事は今のようにジャンク化していなかった。それでも世の中は、優れた視力を持った人たちには本作に書かれたように暗く、その人たちはみんな疲れ切っていた。ニヒリズムさえが子供を遊ばせておくための「イズム」の一つになってしまっていた。民衆との連帯を拒否する強力なニヒリズムを生み出す力は、そうした一人一人の学生には全く残っていなかった。