大ベストセラー『ノルウェイの森』の次に書かれた作品。長編小説としては6作目、1988年刊。
おなじみの羊男が出てきて主人公・僕が異界と関わるときの媒介役になる。羊男が何ものであるのかを知るためにも、『羊をめぐる冒険』を先に読んでおいた方がいいかもしれない。物語としては、村上小説の舞台設定になくてはならない不思議な性格造型がなされた人物が何人も登場する。人を2人も殺す友人、札幌で知りあったこの世から突然消滅するコールガール、自分の13歳の娘をホテルの中に放り出してカトマンズに何週間も撮影旅行に出てしまう有名カメラマンなどだ。放り出された娘はユキといい、彼女は芸術家としての母親・アメは認めても人の親としては人間以下だと思っていて、できそこないの親たちが作る世の中の学校などにはまったく行く気がしない。
村上が学生だった1960年代とはすっかり変貌してしまった高度資本主義者会の中で、自己を実現しようとすれば、これらの奇人・変人が増え、善悪の基準はふらふらしたものにならざるを得ないと村上は言っているようだ。本作には何カ所か、村上春樹が高度資本主義とは何なのかをめずらしくストレートに語っているところがある。1988年刊行だから、インターネットが世界に網を張る前の高度資本主義社会だが、今現在2019年の資本主義社会についても100パーセント当てはまる。
上巻p125-7
当時はそうは思わなかったけど、1969年にはまだ世界は単純だった。機動隊員に石を投げるというだけで、ある場合には人は自己表明を果たすことができた。でも、今のようにソフィスティケートされた哲学のもとで、いったい誰が警官に石を投げられるだろう。いったい誰が進んで催涙ガスを浴びるだろう。それが現在なのだ。隅から隅までナーバスな網が張られている。網の外にはまた別のナーバスな網がある。何処にも行けない。石を投げれば、それはワープして自分のところに戻ってくる。本当にそうなのだ。
巨大コンピュータがこれを可能にした。世界に存在するあらゆる事象がその網の中にすっぽりと収まってしまった。集約と細分化によって、資本というものは一種の概念にまで昇華された。それは極言するなら、宗教的行為でさえある。人々は資本の有するダイナミズムを崇める。その神話性を崇め、東京の地価を崇め、ピカピカのポルシェの象徴するものを崇める。それ以外にはこの世界にはもう神話など残されていないからだ。
それが高度資本主義というものだ。気に入るといらないにかかわらず、われわれはそういう世界に生きている。そこでは善悪という基準も細分化される。ソフィストケートされたのだ。善のなかにもオシャレな善とそうでない善がある。悪のなかにもオシャレな悪とそうでない悪がある。オシャレな善のなかにもフォーマルなものがあり、カジュアルなものがあり、ヒップなものがあり、クールなものがあり、トレンディーなものがあり、スノッブなものがある。
こういうナーバスな世界では、哲学はどんどん経営理論に似てくる。哲学は時代のダイナミズムに近接するのだ。アップルのスティーブ・ジョブズが一部の人間たちに哲学者だといわれたのはジョークではないのだ。
とは言いながら、主人公の「僕」は、変人・奇人や妖怪的な登場人物との絡み合いの中で、上記の13歳の美少女・ユキと仲良くなり、彼女の家庭教師的人間になって物語は進んで行く。次のような会話はいかにも村上風であり、彼の長編がことごとくベストセラーになる大きな理由の一つだろう。
下巻p165-6
僕らは1時間ほど泳いだ。ユキはなかなか泳ぎがうまかった。沖の方まで泳いだり潜って足を引っぱりあったりして遊んだ。それからシャワーを浴びてスーパーに買い物に行き、ステーキ肉と野菜を買った。そして玉ねぎと醤油を使ってさっぱりとしたステーキを焼き、野菜サラダを作った。豆腐と葱の味噌汁も作った。気持ちの良い夕食だった。僕はカリフォルニア・ワインを飲み、ユキもグラスに半分ほどそれを飲んだ。
「あなたは料理が上手いのね」とユキが感心していった。
「上手いんじゃない。ただ愛情をこめて丁寧に作っているだけだよ。それだけでずいぶん違うものなんだ。姿勢の問題だよ。様々なものごとを愛そうと努めれば、ある程度までは愛せる。気持ちよく生きていこうと努めれば、ある程度までは気持ちよく生きていける」
「でもそれ以上は駄目なのね?」
「それ以上のことは運だ」と僕は言った。
「あなたってわりに人のこと落ち込ませるのね。大人のくせに」