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高橋和巳 『堕落』(新潮文庫)

 高橋和巳はつくづくメランコリーの人、鬱の人だと思う。

 主人公・青木は第2次大戦中に満州関東軍参謀本部に所属していたことがある。そのせいで満州国総務庁職員や拓務省の参議、清朝の遺臣と親交があった人物たちと交流がある。しかし青木自身は右翼的人物ではない。戦後はアメリカ占領軍兵士たちが産ませっ放しにした混血児童たちの養育施設を運営し、成果もあがっている。今ではそんな彼は、まだ数少なかった社会福祉法人経営者としてメディアから高い評価を得るようになっている。

 しかし、経営資源のほとんどが「人」であるのが社会福祉法人である。よその福祉法人にはない心性を持ったスタッフを丁寧に集め、スタッフ全員に経営者の理念を浸透させ、そのスタッフ一人ひとりは混血児童たちの荒みがちな心を毎日毎日耕していかねばならない。そして経営者は、彼ひとりの孤独な任務として、汚れていない活動資金の捻出に長じていなければならない。 
 メランコリーの人・高橋和巳はこのような青木に、暗い闘いを日常茶飯とする点では社会福祉法人政治結社と何ら変わらないとして、次のようなセリフを吐かせる。

 p143-4

 同じ理想に基づいて結社し理想家が懸命にその理念の現実化を考え、ある程度の勢力となって理想が実現しそうに見えたとき、ひょいと気づいてみると、その集団は、集団が膨張し権力に近づいたというまさにそのことによって、醜悪な誹謗と猜疑のるつぼと化しているのだ。かつて同士であった友人たちが談合している席に不意に入って行って、何とも言えぬ気まずさに包まれた経験は君にはないか。
 こちらは友人だと思っており、久しぶりの会合に、どういう冗談を言って笑わせてやろうかといったことまで考えて、満面に微笑を浮かべて入ってゆく。すると一瞬座は白け、ネコのように濡れた目で、その座の全員が入って行った君を冷たく見据える。君に能力があればあるほど、そういう経験を数多く積まねばならなかったはずだ。

 人間だれしも欠陥はある。迂闊だったり不作法だったり、酒飲みだったり女に甘かったり、欠陥をあばきあえばきりはないのだが、最初はだれしも、自分が疎外されるのは自分に何か欠陥があるからだろうと反省する。だがそのうちに愕然と気がつくのだ。欠陥のないこと、有能であること自体すら誹謗の材料になりうるのであり、組織がいったん形成されれば、組織の発展に尽くす者より、組織の中を泳ぎまわるものの方が必ず力を持つのだということが。

 人間は信頼できないものだ。人間が人間を信じなくなるのは、味方だ思い込んでいた者の中に、無数の裏切りと中傷と、羨望と嫉妬と、怨嗟と策謀が渦巻いているからだ。悲しいことだ。悲しいことだ。

 いろいろなことで堕落しきった私には、君に向けて教訓を垂れる資格などないが、私がなぜこのような人間になり、このような人間でしかありえなかったかを、誰かに解っておいてもらいたい気がする。人を信じなくなった人間は、やがて、そんなくだらぬ人間とかかわり合うよりは、世捨て人となった方がましだと諦めるか、そういうくだらぬ人間は頭ごなしに押さえつけるより仕方がないのだと思うようになる。絶望的な殺戮の剣をふるう独裁者と、世の無常をはかなむ世捨て人の精神の暗黒とは、陰陽両極の相似形なのだよ、ほんとうは。

 『堕落』は文庫本で200ページに満たない小品。青木が「堕落」して公金を使い込んでしまう話や、女性従業員に暴行をしてしまう話などがやや唐突に出てきたりする。女性との食事場面も書かれるが、生真面目な高橋はこういう艶めいたシーンを書かせると読者をハラハラさせるほどにヘタクソだ。薄い本なので我慢はできるが。  
 高橋和巳は1971年、大腸がんでわずか39歳でなくなった。50年近く前だが、当時、末期がんのひどい疼痛に有効な麻薬製剤はあったのだろうか。モルヒネはあったが、それを患者本人がポンプで注入できるシステムは多分なかっただろう。顔の形相が変わるような痛みを思うと、本当に気の毒だと思う。