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丸谷才一 『輝く日の宮』(講談社)

 源氏物語』の前半にある『薄雲』の巻で、前の中宮藤壺は37歳の美しい盛りにあって死の床に就いている。そしてしだいに途切れがちになる意識の中で、かつてあのように自分を慕ってくれた源氏への思いがよみがえる。「あの若い日に、局の御簾や几帳に紛れながら何ごころもなく自分にまつわってきた世にも麗しい御子・・・・・天つ空から仮に降り下ってきた天童のように光り満ち、匂い満ちて清浄無垢に輝いていたあの五歳年下の少年は、いつしか物思いのおびただしすぎる若人の姿になって、ある時は枝を露にたわめられた桜の花群のような悩ましさにうなじを重らせ、ある時は精悍な隼のようにまっしぐらに狙い撃つ強さ激しさの悲しみに怯えて、羽ぶるいながら自分を捕え、揺すぶり、二つを一つにして見知らぬ境に連れ去って行った。二人はたしかに一つのものに変って、幻の世界にいた、それも二度までも。」

 読者はここで初めて、源氏と藤壺中宮の絶対秘密の情交が一度だけでなかったことを知る。将来冷泉帝となる皇子を懐妊したのは二度目の逢瀬のときだったことを知る。しかし読者はこのときある種の奇異な感じにとらわれる。男女の情交を描くときふつうは初めてのときのことを詳しく書き、2回目のことはあっさり書くのがふつうだからだ。本書『輝く日の宮』はこの、なぜ初めての交わりのときのことを書いた巻が存在しないのかについて詳しく迫った小説である。丸谷らしい教養と才知にあふれて読みごたえがある。

 主人公は杉安佐子という若い国文学者。彼女は『源氏』の初稿では全体の冒頭「桐壷」についで「輝く日の宮」があったという仮説を立てる。それによれば、もともと『源氏物語』全54帖のうち第1帖から第33帖まではA系とB系の2系列があり、前半だけで言えばA系は1桐壷にはじまって5若紫、7紅葉賀、8花宴、9葵、10賢木、11花散里、12須磨、13明石、14澪標と続く。いっぽうB系列は2帚木、3空蝉、4夕顔、6末摘花、とA系列の中に挟まっていく。いま問題の「輝く日の宮」はB系列の冒頭にくるもので、ここで光源氏藤壺中宮がはやくも関係を持ち、以降の色調を支配する、という仮説である(p234あたり)。

 ところが制作途次のあるとき、誰によってか、またどのような理由によってか「輝く日の宮」はなくなってしまい、あの帖は書かれなかったことになってしまう。なぜそうなったのか、作者自身がみずから廃棄したとは到底思えない、ではいったい誰がいつどのような手を使って、まるまる1帖をなきものにしてしまったのか。

 本書の途中から藤原道長の名が頻繁に出てくる。もちろん絶対権力者として、そして和漢の書籍に通じ、物語を興味深くするテクニックの勘どころにも深く通じた教養人として。少し詳しくいえば、場面を詳述するばかりがその箇所だけでなく、全体の印象を深く読者に刻み付けるとは限らない、そういった「書かないことの奥義」まで心得た芸術のパトロンとして。

 本書を読むためには「源氏物語」をダイジェスト版でもいいから読んでおく必要がある。わたしは15年前にもこの本を読んだことがあるのだが、そのときは「源氏物語」をほとんど読んでいなかったので、今から考えれば、よく分からない、ずいぶん退屈な小説と思ったものだった。