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シュテファン・ツヴァイク 『ジョゼフ・フーシェ』(岩波文庫)1/2

 大革命時代のフランスに興味のある人ならジョゼフ・フーシェという名前は聞いたことがあるかもしれない。あるいはタレーランメッテルニヒといった一筋縄ではとてもくくれない権謀術数の外交家にちかい人物ではなかったかと、それくらいのぼんやりした記憶はあるかもしれない。

 ツヴァイクははしがきで非常にわかりやすくフーシェを紹介している。
 「ジョゼフ・フーシェという人物は、その当時においては権勢並びなき人物の一人であり、最も異色ある人物の一人なのだが、同時代の人々からは毛嫌いされ、後世から公正な判断を受けたことはさらに少ない。ナポレオンはセント・ヘレナにおいて、ロベスピエールジャコバン党員の前で、またフランスのあらゆる歴史家はその立場が王党派であろうと、共和党であろうと、ボナパルト党であろうと、この名前をちょっと聞いただけで、最大級の憤懣を洩らしている。生まれながらの裏切り者、いやしむべき陰謀家、のらりくらりとした爬虫類的人物、変節漢、下劣な岡っ引き根性の持ち主、あさましい背徳漢・・・・、どのような侮蔑的罵詈も彼に浴びせられないものはなく、ラマルティーヌもミシュレもこの男の性格というよりはむしろ驚くほど執拗なその無性格を、まじめになって研究しようとするのだが、途中で「なんのためにこの男のことなど・・・」と思って投げだしている。

 p13-5
 1759年一介の市民ジョゼフ・フーシェは船乗りの家に生まれた。育ちの卑しい少年が世の中に出たいと思えば、門を開いているのは寺院だけだった。どんなに身分の低いものでも、この精神の王国には入ることができ、少年ジョゼフは数学と物理の教師として頭角を現して数年で学校管理者、塾長にまでなることができた。
 僧侶の誓約さえすれば、彼はもっと高い地位に登ることもでき、教団僧ともなり、ゆくゆくはおそらく僧正にも大僧正にもなれたであろう。ところが全くフーシェらしいやり口だが、その経歴の最初の段階で、すでに彼の本質の最も特質的な一面が示された。すなわち誰かある人やある物事に完全に結びついてしまうということに対する嫌悪の情が表れてくるのである。最初の十年間は僧服をまとい、頭を坊主にし、他の教父たちと僧院生活を共にし、他の僧侶たちと何も変わったところはなかったが、いざ上級の僧職授与式を受けるにあたって、彼はどのような制約も拒んだのだった。彼はまだ一人前の年齢になる前から、後年の彼が常にそうしたように、どのような境遇にあっても抜け道だけは開けておく、変転自在の可能性だけは残しておいたのである。
 革命政府、総裁政府、統領政府、帝国、王国に対する彼ののちのやり口と同様に、彼を迎えてくれた寺院にも一時ちょっとばかり身を寄せただけなのだ。ジョゼフ・フーシェは、人間はおろか神にさえ、終生不変の忠実を誓うことなど、夢にも思ったことはない。