アクセス数:アクセスカウンター

★マルセル・プルースト 『失われた時を求めて 5 第三篇 ゲルマントのほう Ⅰ』5/13

pu

 p187 夢と覚醒について

 プルースト(1871~1922年)はフロイトと同時代の人なのだが、フロイトの『夢判断』(1900年)は読んでいなかったらしく、眠りと覚醒を精神錯乱と復活ととらえていた。当時はそれがまだ一般的には「進んだ認識」だった。プルーストという、19世紀後半から20世紀前半に生きた知識人の中でも特別に繊細だった人に、眠りという生理現象がいかに謎であったか、そして私たちの生理学の理解がどれほど歴史的に最近のものなのか・・・・、次のパラグラフにそのことがよく現われている。

 深い眠りを「鉛のような眠り」と言いあらわすが、そんな熟睡から覚めてしばらくは、自分自身がただの鉛の人形になってしまったような気がする。

 私はもはやだれでもないのだ。目覚めてしばらくはそんなありさまなのに、なくしたものを探すみたいに自分の思考や人格を探したとき、どうしてべつの自我ではなく、ほかでもない自分自身の自我を見つけ出すことができるのか? 目覚めてふたたび考え始めたとき、われわれの内部に体現されるのが、なぜ前の人格とはべつの人格にならないのか? 何百万もの人間の誰にでもなりうるのに、いかなる選択の根拠があって、なにゆえ前日の人間を見つけ出せるのか不思議である。

 たしかに中断があったのに、なにがわれわれを導いているのか? 心臓の鼓動が止まっても、舌を規則的に引っ張られて息をふきかえすときのように、たしかに死があったにもかかわらず、だ。われわれが一度しか見たことのない部屋にもきっとさまざまな想い出を呼び覚ます力が備わり、その想い出にさらに古い想い出がつながっているか、あるいはわれわれの内部で想い出のいくつかが眠り込んでいて、目覚めたときにそれがふたたび意識されるのだろうか。

 目覚めるさいの――眠りというこの恵みぶかい精神錯乱発作のあとの――復活という現象は、つまるところ、人が忘れていた名前や詩句や反復句を思い出すときに生じることと似ているに違いない。そうだとすると死後の魂の復活も、ひとつの記憶現象としてなら理解できるかもしれない。

 ・・・フロイトの理論が現われたとき、その精神分析理論は、まだ当時のウィーンに色濃く残っていた錬金術の一種であるとみなされたというのも、上記の文章から十分納得がいく。「精神」も「人格」も「思考」も「錯乱」も、その定義はその文章を書く人に任されていた時代だった。

 翻訳者の吉川教授が「あとがき」で触れていることだが、プルーストと同年生まれのポール・ヴァレリーもまた夢に関する精密な考察をノート『カイエ』に書き綴っている。ヴァレリーの『テスト氏との一夜』の主人公「テスト」氏は「フランス語Tete(=おつむ・頭脳)の古語Teste」氏のことであり、一作全ページが「精密に考えるとはどういうことか」というややこしいことを主題にしたものである。 フロイトプルーストヴァレリーと、19世紀から20世紀の変わり目は、人間認識の中心対象が脳と心に大きく転換し始めた時代だった。

 ・・・それはともかく、この『ゲルマントのほう1』はこれまでの五巻の中で一番退屈な巻だった。しかもこの第5巻は「ゲルマントのほう」全体の三分の一の分量にすぎないらしい。第六巻では、本巻冒頭でゲルマント館の一角に引っ越してきた主人公の「私」が、ゲルマント公爵夫人への憧憬を次第に募らせ、スノッブな青年らしく大貴族のサロンに引き寄せられる過程が描かれるらしい。もちろん大貴族のサロンの実態を描くことにプルーストの狙いがあるわけではなく、吉川教授の言うように、そのときの「私」には「客観的」な理由があるように見えた自分の行動や認識に、いかに本人の独断的主観が関与しているかが明らかにされるのだろう。ただ、私はすらすら読み続けられるだろうかと、やや心配にはなる。

 ところで、今回の岩波文庫版『失われた時を求めて』はこれまで五巻が発行されたが、ときに、本作品の実際の記述と私が抱いてきた近代小説の文体イメージがあまりにも離れすぎていて、先に読み進めないこともあったがたびたびあった。『失われた時を求めて』ではストーリーはあってもなくてもどっちでもいいようなものと気づいて私はまごついてしまったわけだが、しかしそれは退屈することとはまた違っていた。『戦争と平和』のときは半分を過ぎると、あまりの説教臭さに、いつ放り出そうかと考えていたものだ。
 でも
率直に、『失われた時を求めて』は近代小説の中でどのカテゴリーに入るのだろうと思う。作者は自分の脳の中で繰り広げられる意識の流れを一つ一つとらえることで、何を読者に聞かせようとしているのだろう。その完璧な心理描写ゆえに、プルースト以後の小説家はストーリー展開の意外性に途を見出さざるを得なくなったというのはある意味で本当だろうが、自意識のあれこれを何百ページにもわたって記述されても、そこに読者は何の楽しみを見いだせるのかとも考えてしまう。この作品が古今の大名作かどうかはわからないが、マルセル・プルーストがかなり歪んだ考え方をするオタクだったことは確かだと思う。