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★プルースト 『失われた時を求めて 6 ゲルマントのほうⅡ』(岩波文庫)6/13

 この巻は全14巻の中で本文380ページほどと特別に「薄く」、外見だけはとっつきやすそうだ。だがそのうち前半の300ページほどは、わずか2、3時間のお茶会で繰り広げられる、「私」をふくめた上流貴族社会のばかばかしい戯画で塗りたくられている。訳者吉川教授の言うように、「100年も前のパリ社交界の虚妄などに興味がないひとは、自慢と当てこすりとほのめかしに満ち満ちた描写を退屈に感じる」に違いない。吉川教授の「あとがき」によれば、社交界がいまだに存在するフランスでも本巻はそう紹介されているらしい。

 だから「これから4年かけて、半年ごとに出る吉川=プルーストを全巻読みきるのだ!という気力がないと、この巻は少々くたびれるのではないか。少なくとも人気の高い巻ではないだろう。

 登場する上流貴族やその夫人たちが、羊の顔をしたお上品な口先で相手の本心を探り合うのは、1900年当時全フランス社会の意見を二分したユダヤ人将校ドレフュスの反逆罪事件とその裁判の行方である。裁判そのものは、反ユダヤ側将校と政治家の証拠捏造が立証されて、ドレフュスは無罪が確定するのだが、この巻の中では裁判は現在進行形であり、登場人物がドレフュス側と反ドレフュス側にわかれて虚虚実実の空虚な掛け合い漫才をする。

 このドレフュス事件が社交人士たちの長たらしい舌戦の背景になっているので、当時のユダヤ人をめぐるヨーロッパ社会の空気の闇を知らない人は、一部過激にユダヤ人を擁護する社交サロンでの会話の流がまるでわからないかもしれない。この、ユダヤ人問題をどの局面で捉え、どう自分の利益に結びつけるかで、同じひとりの人間でも態度をころころ変えるのだが、その「態度をころころ変える」のは、公爵もその夫人も、ブルジョア芸術家も、公爵家の門番も、給仕女も、そして「私」自身も同じである。社会階層を問わない、自己正当化の愚劣さをいやになるほど出るほど読者に見せつけることが、プルーストの目的なのだ。

                                                            

 p196-9 外交官と女は同じ戦略を使う

 戦略に長けた外交官たちの、ほとんど無意味な公式発言ごときに悦に入るこの社交人士たちは笑うべきものではある。だがいかなる外交官でも心得ているのは、ヨーロッパにせよ他の地域にせよ、人々が平和と呼んでいる均衡を保つための天秤の上では、ことを決する本物の重い分銅は、その場の会話とは別のところにあるのだという認識である。つまり、強力な相手との交渉の成否を決するのは、本物らしく見える空手形を自分が持っているかということなのだ。

 ごく簡単な話、男が女に金を渡そうとすると、女が「お金の話はやめましょう」と言う場合、その言葉は音楽でいう「全休止符」と考えるべきである。後になってその女が「あなたにはずいぶん苦しめられたわ、もう我慢の限界」などと言えば、それは「ほかのパトロンはもっと出してくれた」という意味であったと解釈しなければならない。男には薄っぺらい紙製の分銅しかなかったが、女は金満家という本物の分銅をいくつも持っていたのである。

 たったいまやりあった、国家を背負うフランスの外交官とドイツの大公はこのような粋筋の女と街のチンピラではないが、職業的習性の中ではチンピラと同じ次元で暮らすことに慣れている。国家なるものも、いかに偉大に見えようとも、これまた利己主義と策略のかたまりというべき存在で、それを手なずけるには力によるか、相手を青ざめさせる本物の重い分銅を探すしかないのである。