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★プルースト 『失われた時を求めて 10 囚われの女』(岩波文庫)10/13

 バルベックの保養地で見初め、「私」がやっとの思いで手に入れた美しい少女アルベルチーヌ。本巻は、そのアルベルチーヌがバルベックで一瞬そぶりを見せたようにやはりレズビアンなのではないか、あるいは男も悪くないと思ってパリのどこかで会っているのではないか、と「私」が嫉妬と疑心暗鬼に囚われてああでもない、こうでもないと悩みの底に沈み込むさまが400ページ以上の全部にわたって描写される。途中に2か所、アルベルチーヌとの会話の中で「私」の実名がマルセルだと明かされるところがある。読者はわかってはいたことだが全14巻を貫く語り手であり主人公である「私」はマルセル・プルースト本人なのだ。

 嫉妬の牢獄に囚われた「私」は、そこから少しでも心理的に解放されるために、実生活の上ではアルベルチーヌに見張り役を付けて、彼女がどこに行くのにも見張り役を同行させる。予定時間には必ず帰らせ、彼女がどんな行動したかを逐一報告させる。アルベルチーヌを「私」の「籠の鳥」として幽閉したようなものだ。囚われの女という題名はここから来る。しかし「私」の不安はそれでもおさまらない。監視役とアルベルチーヌは通じていないとは限らないからだ。

 さんざん苦労して手に入れたアルベルチーヌを、手に入れた後では「私は彼女をもはや愛していないことは明らかだった」と冒頭部で言わせていたり、そのくせアルベルチーヌが叔母の家に生きたがるとその理由をしつこく聞いて見張り役を付けたり、あげくは見張り役が二重スパイなのではと疑ってみたり・・・・・、「私=マルセル・プルースト」が自分で掘ったエゴイズムの深い井戸は底を知らない。以下はそんな身勝手な男をしねくねと出がらしになるまで煎じ出した一節。

 p387-9

 ・・・私がかつてアルベルチーヌに目を奪われたのは、相手を神秘の鳥とみなしたからで、皆の欲望をそそって誰かのものなっているやもしれぬバルベック・リゾートの大女優とみなしたからにほかならない。ある夕方、どこから来たのかも定かでないカモメの群れのような娘の一団に取り巻かれて堤防の上をゆっくり歩いてくるのを見かけた、そんな鳥であったアルベルチーヌも、ひとたびわが家の籠の鳥と化すと、ほかの人のものになる可能性を一切喪失するとともに、あらゆる生彩を喪失してしまった。
 かくしてアルベルチーヌは少しずつその美しさを失ったのである。私の嫉妬はたしかに想像上の楽しみの減退とは別の道をたどりはしたが、それでも浜辺の輝きに包まれたアルベルチーヌをふたたび目にするためには、アルベルチーヌが私を抜きにしてほかの女性や青年から話しかけられている姿が想像されなければならなかった。

 そして実際にそのような想像をしてみると、わたしはその女性や青年に対する本物の憎悪に駆られた。そしてその憎悪には、バルベックの浜辺で泳げない恰好をしている私を仲間たちと一緒に大笑いしたアルベルチーヌへの称賛の気持ちが混じっていた。このような恥辱、嫉妬、欲望や輝かしい景色の思い出が、今や囚われの女となったアルベルチーヌにふたたび昔の美しさと価値を付与したのである。
 そんなアルベルチーヌ、私の部屋でそばにいるかと思えば、ふたたび自由を与えられ、私の記憶のなかの堤防の上で例の陽気な浜辺の衣装をまとって海鳴りの音楽に合わせてふるまうアルベルチーヌ、あるときはその環境から抜け出し私のものとなってさしたる価値もなくなり、あるときはその環境へ舞い戻り、私の知るよしもない過去のなかへのがれて、波のしぶきや太陽のまばゆさに劣らず私を侮辱する、そんなアルベルチーヌは、いわば水陸両棲の恋の対象だったのである。