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★プルースト 『失われた時を求めて 11 囚われの女2』(岩波文庫)11/13

 「私」は、やっとの思いで手に入れて、いまは自分の家に囲っているアルベルチーヌを、じつは少女時代からゴモラ(男も愛せるレズビアン)ではないかと深く深く疑っている。疑いの間接的な証拠は実際にいくつもあるのだが、これでもかこれでもかと読まされる者はその「私」の疑念と嫉妬のしつこさにはほとほとうんざりしてしまう。
 アルベルチーヌは「囚われの女」ということになっているが、実際にはただ自分の性向に従うだけの奔放で下品な市民階級の女であるにすぎない。彼女を自分の家に軟禁しながらも彼女の言葉の端々に翻弄される「私」(=プルーストの分身)こそ自分の脳の生理機序に捕えられた囚人である。だいたい自分のものにした女を物理的に自宅に軟禁するということが、すでに「私」の性癖の異常性を証明している。ここまで読んできてプルースト(=「私」)が普通人でないことはよく理解できるのだが。

10巻・11巻は「囚われの女」の上・下巻だが、8巻・9巻のソドムとゴモラの話がこの2巻でもずっと続いているのでプロット上の起伏はほとんどない。あと3巻だけだから通読したいと思うのだが、この巻の「私」の、ああでもない・こうでもないが続くようなら買いはしても本棚に並べるだけかもしれない。

 吉川教授は書く。「プルーストは、読者のこのような反応を予期していたのか、「私」のアルベルチーヌへの疑念は「私」自身の浮気な欲望の反映にほかならないと、こんな弁明じみたことを書く。「「私」が完全に恋人に忠実なだけの人間であったなら、相手の不実など思いつくことさえできず、それゆえ相手の不実に苦しむこともなかったであろう。ところがアルベルチーヌのなかに「私」が思い浮かべて苦しんでいたのは、新たな女たちに好かれたい、小説じみた新たな冒険のきっかけをつくりたいという、「私」自身の絶えざる欲望であったのだ」と。

 プルーストの異常にしつこい恋愛心理の分析は、このように、人間は究極的には猜疑心の塊りであるであるというシンプルきわまりない洞察に基いている、それは<男と女>であれ<男と男>であれ<女と女>であれ変わらない、というわけだ。