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プルースト 『失われた時を求めて 13・14 見出された時』(岩波文庫)13/13

 第13巻の4分の1ほどで、読む根気がとうとう尽きてしまった。14巻の本文は全く読まず、吉川教授の簡単な「まえがき」と詳細な「あとがき」を斜め読みした。

 「まえがき」によれば、本作の大団円となるゲルマント大公邸における午後のパーティ描写から最終巻は始まっており、そこで書斎から出てサロンに入った「私」は出演者に昔の面影を認めることができず、皆が白い髭をつけ、髪に粉を振りかけて変装したように見えるのに面食らう。「私」が療養のせいで社交界から遠ざかっていた間に、全員が年を取ったからである。
 「私」よりずっと若いはずの亡きスワンの娘ジルベルトからは「わたしのことをスワンの妻だった母のオデットだと思ったでしょと皮肉を言われ、ある老婆からは「わたしは誰でしょう?」と問いかけられても、彼女がユダヤ人の元娼婦で今や大女優のラシェルだとはわからなくなっている。 
 ・・・パーティの出席者たちから、思わぬ老人扱いをされた「私」はそれまで意識せずにいた自身の老いを、明るい光のなかにまざまざと見出すことになる。そして療養に入る前から決心していた自らの半生記執筆をさっそく始めようとするのだが、そんなある日、階段を降りるときに三度も転びそうになる。この状態で「私」が思い定めた作品の構想をすべて実現するのは無理だろう。だがしかしすくなくとも何人かの人間を「きわめて広大な場所と時間の中に占める存在として描く」ことは可能ではなかろうか、そう「私」が決意するところで『失われた時を求めて』全14巻は幕を閉じる。

  「あとがき」吉川教授がで書いているように、「私」が書こうとしている作品は、「私の過去の人生を素材にして、時間の埒外に存在する真に充実した人間を、写実主義の手法をとらず、夢の効用を援用しながらシュールレアリスティックに描き出す」というのだから、これはもう『失われた時を求めて』で私たちが読んできた素材とその扱い方そのものに他ならない。そして「私」はこれを書くことこそ「私」の天職であることを発見したといまさらのように言う。つまり老いた「私」が書こうとしているのは、プルーストというたぐいまれなシュールレアリスト小説家の存在根拠を示そうとする小説なのであり、小説の中で小説が循環する超小説だといえる。

  ところで。話は急降下する、というわけでもないのだがが、プルーストはデュマやバルザックフローベールが書いたようなレアリスム作品を書くことには全く向いていない。プルースト自身が何度も言っていることだが、恋愛はデュマやバルザックフローベールが書いたような、相対する二者がよく似た感情を高ぶらせるところに発生するものではない。そうではなくて、恋は片方だけでも「自分の方程式にのっとって相手を恋している」と思い込めば十分に成立するものであり、恋の途中の波乱はその時々の一方の心臓または視力の波乱を映し出しているものに過ぎない。

 もちろんこういう「恋愛=一者または二者の独善論」が成立することも世の中にはあるのだが、プルーストに一蹴されそうな「恋愛=長続きする二者の美しい幻想論」の実例も、現実の世の中や小説の中には枚挙にいとまがないことは、きわめて多くの読者の認めるところではなかろうか。私が何が言いたいのかと言えば、プルーストが何度小説の小説を書こうとも、出版社はあまりいい顔をしないのではないかということである。

 最終回だから少し長くなるが、井筒俊彦氏の「ユング的深層意識論」を俟つまでもなく、表層意識のだいぶ奥のほうには、次第に表層意識化への胎動を見せる無意識領域のほか、言語アラヤ識領域といわれる領域がある。ここは意味的「種子」(例えば「恋」)が「種子」特有の潜勢性において隠在する場所であり、ユングのいわゆる集団的無意識あるいは文化的無意識の領域に当たる。ここでの例えば「恋」の隠在の形態は民族や人種や教養や経験でかなり異なり、「恋」が美しい事象のニュアンスを帯びたり、逆に悪いニュアンスを帯びたりする。
 この言語アラヤ識領域よりも表層意識に近いところにあるのが「想像的」イマージュの場所であり、さきの領域で成立した基本イマージュはここで様々な具体的言語イマージュとして生起し、経験的事物に象徴的意義を与えたり、存在世界を一つの象徴的世界として体験させるといった独特の機能を発揮する。

 つまるところ、プルーストの「愛」と「恋」にはそれを担う人間の横の広がりが乏しかったのではないか。あれだけ多くの男女が登場しながら彼・彼女らはかなり良く似た愛と恋のパターンを演じているのではないか。パリの空の下、千人の貴族や十万人のブルジョアがそれぞれ微妙に違った愛や恋の種子を持っている・・・・プルーストは、これからの作家はそういう独自の意識を生み出すまったく違うフィルターを、社会階層とか教養階層とかに何十種かずつ持たせてからしか、新しい小説はもう生み出せないと予言すべきではなかったか。
 端的に言えば、彼のころから始まろうとしているブルジョアの新しい世紀にはプルーストは、いかにも滅びゆく階級の先頭にいるものにふさわしく、対応力を持たなくなっていたのではないか。