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村上春樹 『神の子どもたちはみな踊る』(新潮文庫)

 p116

 僕たちの寿命と神のいやがらせ

 更年期という問題は、いたずらに寿命をのばしすぎた人類への、神からの皮肉な警告(あるいはいやがらせ)に違いないと、さつきはあらためて思った。
 つい百年ちょっと前まで人間の平均寿命は五十歳にも達していなかったし、月経が終了したあと二十年も三十年も生きるような女は、あくまで例外的なケースだった。卵巣や甲状腺が正常にホルモンを分泌しなくなった肉体を抱えて生きることのわずらわしさとか、閉経後のエストロゲンの減少とアルツハイマー症のあいだに相関関係があるかもしれないとか、そんなことは、さつきにとって特に頭を悩ませるほどの問題ではなかった。つい百年ちょっと前までの大多数の人々にとって、それよりは日々のまともな食事にありつくことのほうがずっとさし迫った案件だったのだ。
 そう考えると結局のところ医学の発達は、人類にとって潜在的なものだった問題をより多く浮上させ、細分化し、複雑化させただけではないのか?

 しかし、医学が寿命をのばしすぎたせいで、死ぬまでに現れてくる問題が複雑化した、そう嘆いてみてもどうにもならない。起きてしまったことは起きてしまったことなのだ。
 たとえば、閉経後のエストロゲンの減少とアルツハイマー症発症は相関しているとわかっても、閉経後に合成エストロゲンを注射すればいいということにはならない。閉経後エストロゲンが減少期にはいると、脳や消化器を含む体内のすべての臓器は波状的に老いに向かう態勢をとりはじめて、初老期の人としてそれなりにバランスがとれた状態になる。そこに短絡的に合成エストロゲンを注射などされれば、全身のホルモンバランスを崩すだけなのだ。アルツハイマー症発症は回避されるかもしれないが、その代わりにどんな異常が顕在化するか、医学はまだ何も解明できていない。
 医学と文学は似ているところがいくつかある。世界を分節的に理解しようとして、あるとき一つの局面の分節に成功できたように思えて微笑むと、世の中それほど甘くない。もう一段難解になった悪魔的な局面がたちどころに現われ、ほくそ笑みながら僕らを待ち受けている。