アクセス数:アクセスカウンター

大岡昇平 『武蔵野夫人』(新潮文庫)

  『武蔵野夫人』は1949年に『俘虜記』を出した翌年の作品。大岡昇平はフィリピンのミンドロ島で昭和21年1月に米軍の捕虜になった。そのあと捕虜収容所でひどい扱いを受けると思っていた大岡は、「国家間の戦争としては日本は敵であるが、米国は日本人兵士個人を敵日本軍の一分身として憎むものではない」として、「不運にも戦闘に敗れて捕らわれの身となった普通の人間」と扱ってくれたことに感銘さえ受けた。読んだ私自身も国家権力と個人の権利を截然とわけるアメリカの態度に、戦勝国の余裕が背後にあるとはいえ、「こういう戦争哲学を実践する国と戦っても勝てるはずがなかった」との思いを深くした。

 『武蔵野夫人』は恥ずかしながら72歳の今日まで読んだことがなかった。タイトルからして、武蔵野の田園で暮らす経済的に恵まれた戦争未亡人の話だろうくらいに思っていた。しかしまったく違った。戦争から帰還した青年とその年上の従姉・道子の禁欲的な恋愛が書かれている。解説者・神西清氏によれば、大岡はこの小説で「女主人公の古風な貞淑感を、(ラディゲが『ドルジェル伯爵の舞踏会』で描き切ったように)男女の心が将棋の駒のように明晰に動き、象牙象牙のかち合う乾燥した音だけで恋の世界が満たされてしまうような小説をもくろんだようである。

 しかし結果は無残な失敗に終わっている。ラディゲの用いたのは「Ce qui n’est pas clair  n’est pas francais」(明晰ならざるもの、フランス語にあらず)という言語である。いっぽう大岡は当然、源氏物語以来のシネクネとした、主語・述語さえあいまいで文法不在とも言われる日本語を使わねばならなかった。当然、このような日本語で、250ページにわたって象牙の駒がカチッ・カチッと乾燥した音を立て続けるような小説を書き続けることは不可能である。

 大岡の失敗はもう一つある。この小説で大岡は常に天上から全体を俯瞰し人物の行動を端々を監視する「神」の視点に立っている。数人の登場人物の心のうごきは、すべて大岡の「地の文」で説明され、登場人物は大岡の説明通りに短いセリフをしゃべるだけで、物語の筋の流れを登場人物の会話が形作っていくということはない。神西清氏はこの小説を心理小説と言っているが、実のところは夏目漱石虞美人草』や『明暗』のような心理小説を書きたくて大失策を冒した「観念小説」にすぎない。しかも地の文の心理解説が神の説教のように晦渋なものだから、文庫本250頁を読むのに3日もかかってしまった。「群像」に連載したものだが翌年に出した単行本はベストセラーになったらしい。

 思うに大岡昇平は戦記物を書く時にだけ、作家としての能力を発揮した人なのだろう。